宇島鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート九州 減速進行

 地区:福岡県豊前市  区間:宇島~耶馬渓17km  軌間:762mm単線  動力:蒸気

山国川を挟んで対峙する福岡県の宇島町(現豊前市)と大分県の中津市。共に山国川沿いの耶馬渓地区、あるいは天領日田との経済的結びつきを深めるべく、それぞれが競って鉄道建設を計画した。中津から延びる耶馬渓鉄道に対し、一歩出遅れた宇島鉄道は耶馬渓地区手前までの開業にとどまり、この時点で両社の明暗が分かれた。福岡県内の終点を強引に耶馬渓と名付け、木材輸送などに活路を求めるが経営は好転せず、バスへの転換をもって鉄道の歴史に幕を下ろした。

略史

大正 3(1914) - 1/ 21  宇島鉄道  開業
昭和 11(1936) - 8/ 1    廃止

路線図



廃線跡現況

A 日豊本線との接続駅、宇島(写真A)の跡地は現在駐車場に変わっている。
木材輸送を手掛けていたため、各設備と共に土場も大きな面積を占めていたものと考えられる。
17年5月
駅の東は一車線の舗装路(写真B)に転換され、少し右に曲がると県道113号線に突き当たる。この先は市街地の中に飲み込まれ、線路跡を直接トレースすることは難しい。

八屋中学校内で南に向きを変え、更に二車線道路を横切ると、やや西に向きを振って県道32号線に合流する。ここからの県道は鉄道跡を拡幅転用したと思われるが、地元で確実な情報を得ることはできなかった。
B
17年5月
C 道路上を進み右手に高校の跡地が広がる地点(写真C)で、鉄道側は徐々に県道から東に離れ、そのまま住宅の裏を抜けて千束中学校に飛び込む。敷地の西側が千束(写真D)の駅跡に相当する。旧版地形図には西からの取付道路が記され、昭和9年の市街図では北側正門前の市道が最も近いアクセス路として描かれている。また位置も微妙に異なっている。

駅の先は地元の生活道(写真E)に転換されるが、すぐ五差路に突きあたって終了してしまう。
17年5月

D
17年5月
E
17年5月

その後は痕跡の消えた住宅や農地内を通り、国道10号線を横切る。この交差部南側の駐車場付近に塔田(写真F)が設けられていた。

更に左カーブで数軒の民家を抜けると当時の路盤が姿を見せ、東九州道への進入路となる県道32号線にぶつかる。この道路両脇に石積み橋台を二箇所(写真G・H)見つけることができる。大正初期に造られた割に、きれいな状態を保っているのは何とも不思議な気がする。
F
17年5月

G
17年5月
H
17年5月

I ふたつの橋を越えると築堤と農地が交互に現われ、そのまま岩岳川にぶつかる。ここにも左岸の橋台(写真I)を確認できるが、雑草に覆われているため目視で何とか見える程度で、写真に写すとほぼ判別不能となってしまう。
17年5月
J
17年5月
ここからは圃場整備された農地の中を進み、しばらくすると民家に利用された黒土(写真J)に到着する。

駅の東も住宅や田圃に細かく分断されるが、やがて農地の中に路盤(写真K)の一部が姿を見せる。途中の水路には、新しいコンクリート擁壁に覆われた石積み橋台(写真L)が、ほんの少しだけ顔をのぞかせている。

K L
17年5月 17年5月

M
17年5月
その後も農地と放置された路盤が繰り返し現われる中、小さな水路用の溝渠(写真M))を見つける。上にコンクリート桁が追加されているようでもあり、現状から鉄道時代の遺構とは断定できないが、その位置は線路跡と重なる。
N
17年5月
同区間にはさらに石積の小橋梁跡(写真N・O)が二箇所連続する。石材の質によるのか白さが際立ち、年代をあまり感じさせない。

次の広瀬橋(写真P)は倉庫等に利用され、駅の東方で佐井川に突き当たる。

O
17年5月 17年5月

Q 川に橋梁跡はないが、東側を平行して流れる小さな水路に、石積みの痕跡(写真Q)を発見する。幅も広く、上部が削られているような感じで、築堤下の暗渠跡とも受け取れる。ただし宇島鉄道のルート上にはあるものの、地元での確認が取れず、鉄道の施設と断定するにはやや不安も残る。
17年5月
再び農地に飲み込まれた路線は、右カーブを描いて南に向きを変える。この先も既に圃場整備が終了し、ルートを直接たどることは難しい。

しばらく南下したのち県道226号線にぶつかると、そのまま鶏卵店に入り込む。この一画が安雲(写真R)の跡地で、店の北東角に駅名標を模した案内板が立てられている。
R
17年5月
S 駅の先で一旦農地内を抜け、更に県道225号線との交差後は、一車線の生活道(写真S)として線路跡が姿を現わす。
17年5月
T
17年5月
ただその道も、東西に走る同様の生活道に突き当たってすぐに終了してしまう。今はこの交差点北東角に、宇島鉄道研究会の手による光林寺(写真T)の駅名標識が立つ。
U
17年5月
南南東に向かう路線は耕地整理の終わった田圃の中で黒川を越え、ゆっくり左カーブを描いた先に、ため池を分断するような築堤(写真P)が延びる。地形の関係からなのか、通常なら避けるはずの池の真ん中に線路が敷設されるという、珍しい光景を見せている。
V
17年5月
途中には両側の池を結ぶ暗渠(写真Q)が一箇所造られ、水位はいつも同じレベルに保たれている。ただこの暗渠、時期によっては雑草に隠されてしまう。

池の先で一車線の舗装路と鋭角に交差したのち再び農地に飲み込まれ、鉄道用地に沿ったと思われる境界線も一部に認められる。
W
22年3月
次駅の友枝(写真W)は県道109号線の西側に置かれ、やはり研究会の手によるの駅名標識が設置されている。以前は材木店が目印となっていたが、既に廃業してしまったようだ。
X
17年5月
県道を横断すると今度は二車線道路(写真X)に合流する。この道は鉄道跡を拡幅転用して建設され、痕跡は何一つ見つからない。
Y
22年3月
左右にカーブを繰り返す道路上を進むと、やがて国道10号線豊前バイパスをアンダーパスする。鉄道側はこの手前で道路を北にはずれ、バイパスとの交差部付近に設けられた下唐原(写真Y)に到着する。
標識は道路脇に立つが、昭和20年代の空中写真を重ねると、鉄道のラインは30m程北の未舗装路付近を指し示している。
Z
17年5月
駅を出ると、先程までルートを共にしてきた二車線道路と交差し、徐々に南へと向きを変える。線路跡は直接たどれないが、墓地の入口に橋台を二箇所(写真Z・AA)認めることができる。対ではなく背中合わせの配置のため、橋が連続していたと考えられ、地形図からはどちらかが跨道橋であったと読み取れる。

その後、墓地の東を抜け、丘陵の裾を走る一車線道路に近づき、やがて合流する。丘陵内の竹藪では、一部に路盤跡らしき段差(写真AB)も認められる。

AA
17年5月
AB
17年5月

AC
17年5月
更に国道10号線をくぐり返したのち、県道110号線を越えると中唐原(写真AC)が見えてくる。駅跡にはかなり年季の入った倉庫が建ち、傍らに駅名標も添えられている。

なお地形図には上唐原と駅名が記されるため、駅の移動を含めた変遷があったと捉えてよさそうだ。
AD
17年5月
駅の南で一旦東九州道に飲み込まれるが、すぐに分離して再び南へと向かい始める。上唐原は探し出す糸口さえ見つからず、高速道直下に設けられていたと推測するにとどめた。

対照的なのが次の百留(写真AD)で、駅名標を含めた二つの案内表示が並び、その跡地を通行者に教えてくれる。
AE
17年5月
そのまま道路上を進むと突然小さな左カーブを描き、山国川の左岸を走る県道16号線に合流する。鉄道側はカーブ手前から直進し、県道に平行しつつ西側の山裾を進む。農地奥のあぜ道(写真AE)が線路跡に一致すると思われるものの、獣害対策の柵が張り巡らされ、跡地を直接たどるには少し苦労させられる。
AF
17年5月
その後、数軒の民家脇を通り過ぎた地点で県道に合流する。当時は道路の西側を併走していたが、既に大半の用地は県道の拡幅に利用されたようだ。

妙円寺の参道脇に位置した原井(写真AF)を過ぎると、再び山国川の左岸に接近する。鮎返が設けられた地区だが、鮎を返す程の滝があるわけでもなく、川の流れは穏やかだ。
AG
17年5月
南進する県道はそのまま山国川を越えるが、鉄道はその手前で西に分離し、終点耶馬渓(写真AG)に到着する。地元の努力により今も駅舎が名残をとどめ、片隅にはホーム跡も顔を出している。

参考地形図

1/50000   中津 [S2修正]
1/25000   中津 [該当無]   土佐井 [該当無]

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最終更新日2022-4/9  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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