両筑産業軌道線を訪ねて
廃止鉄道ノート九州 減速進行

 地区:福岡県甘木市  区間:上田主丸~秋月/16.2km  軌間:914mm/単線  動力:蒸気

大正初期に開業した地元資本の蒸気鉄道で、社名の通り筑前と筑後を結んでいた。軌道条例に基づいているが、道路上に敷設された区間はごくわずかで、大半が専用軌道上を走っていた。補助金が決められ規制も少ない軽便鉄道法に拠らなかったのは、不思議というほかない。
なおここでは取り上げないが、筑豊地区への延伸も計画され、上山田線の臼井駅に接続する上礁井~飯田間/2.2kmが先行開業されていた。

路線図

略史


大正 1(1912) - 9/ 8  両筑軌道 開業
2(1913) -     全通
14(1925) - 4/ 27  新両筑軌道に譲渡
昭和 6(1931) - 5/ 12  両筑軌道に改称  
11(1936) - 9/ 14  両筑産業に改称
13(1938) - 12/ 27     軌道線 廃止

廃線跡現況

秋月駅跡
A
20年9月
北側の終端駅秋月(写真A)は、国道322号線沿いの倉庫から畑にかけてと言われている。扇状の区画を持ち、蒸気鉄道の運行に必要な各施設を備えていたのは間違いないが、その詳細は把握できていない。
B
20年9月
駅を出た路線は区画整理の済んだ田圃を抜けたのち、当地の主要河川小石原川(写真B)を渡る。橋梁の遺構が残され、一部は川底に崩落した姿を晒している。コンクリート製だが内部に鉄筋は認められず、技術的にはまだまだ聡明期の建設であったことがよくわかる。
C
20年9月
川の先でリサイクル業者の敷地を抜けると、里道(写真C)が現れる。ここが軌道のルートに一致するが、獣害対策の柵で囲われ、また雑草も深く立ち入ることは難しい。
D
20年9月
そのまま緩やかな右カーブを終えると、国道322号線に合流する。ここからの国道は線路敷を転用して建設され、車にとって走りやすい道だが、鉄道の痕跡は何も残されていない。

最初の十字路付近が女男石[めおといし](写真D)と思われるものの、地形図に記載はなく、場所はあくまで推測でしかない。また同所のバス停は夫婦の漢字を使っている。
E
20年9月
千手橋も橋のたもとに同名バス停があるものの、やはり地形図に記載はなく、軌道の駅を踏襲したのかは不明だ。

次の下渕(写真E)は園田橋の下流側となり、バス停とは若干位置がずれているようでもある。
F
20年9月
さらに下って安川橋の北で国道と別れ、小石原川の左岸堤防道路(写真F)へと移る。駅は橋の前後にあったと推測するのみ。

大型台風の翌日にあたり、地元での聞き込みが思うに任せなかったことも痛手となった。
G
20年9月
川沿いにしばらく進んだ後、堤防道路から左に離れ、住宅地内を抜けたのち再び国道322号線に合流(写真G)する。大塚はこの付近に置かれていたはずだが、残念ながらおおよその位置さえ掴み切れなかった。
H
20年9月
国道はやがて朝倉軌道を擁する同386号線と交差(写真H)する。両筑軌道はここで左折し、朝倉軌道と併走しはじめる。朝倉郡地図によると北側が両筑、南側が朝倉で、次の甘木(写真I)も現在のバスターミナル付近に並んで設けられていた。

駅の東方で国道上の朝倉線と分かれ、再び南へと向きを変える。分岐直後の道路南脇に七日町(写真J)が位置した。

I
20年9月
J
20年9月

K
20年9月
甘木の市街地に飲み込まれた水町三福小路は地形図に記載はないが、朝倉郡地図によると前者は法泉寺の西隣、後者は三福町交差点の北西を指し示している。

密集地を抜けると変則六差路が現れ、ここからは旧県道(写真K)の北脇に沿って進む。
L
20年9月
左手の朝倉厚生病院を過ぎると、路線は道路から右に離れていく。妙海のあった地区だが、やはり正確な場所は判然としない。
その後、民家や駐車場を抜けて県道33号線と鋭角に交差し、越えた先が来春(写真L)となる。
M
20年9月
ここからは区画整理された農地や住宅地内を進むため、ルート上を直接たどることは不可能となってしまう。この一画で一木を過ぎたのち、立石郵便局付近で再び県道と位置を入れ替え、その東隣を併走しはじめる。線路跡は、おそらく道路の拡幅に利用されたものと思われる。

そのまま道なりに進み、大分道を南に越えた地点が鳩胸(写真M)となる。
N
20年9月
続く小田(写真N)には同名のバス停が設けられ、ここを駅跡と考えてよさそうだ。
この先で一旦県道の西奥にルートを移し、痕跡を消したまま佐田川へと向かう。河川改修で何も残らない川を渡ると、再び県道の東隣へ戻る。先程までと同様、道路に吸収されたと思われるが、現地で確認は取れていない。
O
20年9月
鎌崎からはほぼ一直線で進み、最初の信号交差点手前に位置したのが林田(写真O)。道路に若干の余地が広がり、同名のバス停も設置されている。

桂川を越えた先の中村も、やはりバス停付近かと思われる。
P
20年9月
洪水による木橋の崩落以降、乗り継ぎの暫定的な終点となっていた筑後川(写真P)。橋につながる築堤が延びていたはずだが、今はすべて削られ、平らな農地に変わっている。川の左岸(写真Q)に設置されていたと思われる仮設駅も、やはり痕跡は認められない。

駅の南は耕地整理された農地に飲み込まれるが、その一角に斜めに走る農道(写真R)を見つける。これが軌道跡に相当する。

Q
20年9月
R
20年9月

S
20年9月
さらに集落の中で民家脇をすり抜け、県道81号線の南方に位置する立野(写真S)に至る。現地で線路跡の教示は得られたものの、駅に関する情報は集めることができなかった。
T
20年9月
一本南側の生活道沿いには民家の石垣擁壁が続き、中に一部だけ布積(写真T)された箇所がある。ここが両筑軌道のルートに一致することから、道路を越えていた跨道橋の橋台跡と考えてよさそうだ。
U
20年9月
その後は再び県道33号線と交差し、東側に移る。ただし今度は道路に隣接するのではなく、やや奥を走ることになり、跡地の大半は沿道の民家や企業の敷地内に取り込まれている。

途中、国道210号線の北側にコンクリ-トの小橋梁(写真U)を見つける。絶対とは言えないが、この石積橋台も鉄道橋の再利用である可能性が高そうだ。
V
20年9月
さらに市街地へと進み、左に曲ると一車線の市道に合流し、最初の十字交差点付近が桜町(写真V)となる。
当時の地図を見ると、駅の西では線路の南側、東は北側にそれぞれ道路が描かれている。つまり、線路用地の一部は、廃止後の道路拡幅に利用されたと考えるのが合理的だろう。
W
20年9月
西に向かう路線は、駅の東方で市道から北に離れ一旦市街地に入り込むが、一画を越えるとルート上に細い路地(写真W)が現れる。軌道敷の一部もしくは側道がそのまま残されたものと考える。 
X
20年9月
路地を過ぎ、続く農地と田主丸小学校を抜け、その先で県道210号線に合流する。ここが起点となる田主丸(写真X)で、県道上を走る筑後軌道との接続駅でもある。

但し筑後側の駅名は上田主丸となっており、乗換での混乱はなかったのか、過去の話とはいえ気になる点ではある。

参考地形図

1/50000   甘木
1/25000   甘木 [T15測図]   田主丸 [T15測図]

 No18・239・251・266に記帳いただきました。
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制作公開日2020-11/20 
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