沖縄県営鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート九州・沖縄 減速進行

 地区:沖縄県那覇市  区間:那覇〜与那原/古波蔵〜嘉手納/国場〜糸満  軌間:762mm  動力:蒸気・内燃

今は鉄道のない沖縄だが、戦前はこの県営鉄道を始め、沖縄電気軌道、沖縄軌道、糸満馬車軌道と、各種の鉄道が走っていた。最後まで残った沖縄県営鉄道は「ケービン」と呼ばれ親しまれていたが、第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受け、戦後復興することもなく消えていった。
一部路線は地図に記載がなかったり、また総延長もかなり長く、探索するには十分な下調べとそれなりの時間が必要となる。

略史

大正 3(1914) - 12/ 1  沖縄県営鉄道  開業
11(1922) - 3/ 28      嘉手納線 開通
12(1923) - 7/ 11      糸満線 開通
昭和 20(1945) -     廃止

路線図



廃線跡現況

−与那原線−

那覇駅跡 A
03年3月
那覇市の旭橋交差点の北東角が沖縄県営鉄道の始発駅那覇(A参照)跡で、現在のバスターミナル。軽便鉄道とは思えぬほどの敷地を有していた。

当時は駅の西を流れる久茂地川の対岸一帯が市内一の繁華街で、駅は大変便利な場所に位置していたことになる。後方には開業目前の沖縄モノレールが横切る。
また線路はこの久茂地川を越えて港の桟橋まで続いていたが、貨物扱のみで旅客列車はなかった。この間は急カーブ、Sカーブの路線だったはずだが、跡地は方形に整理され当時の痕跡はない。桟橋の荷扱所跡付近には、首里へ向う沖縄電気軌道の停留所もあったと思われるが、こちらも痕跡は見つからない。
与那原線は始発駅那覇を出発すると、国道329号線と平行しながらその北側を東に向かう。所々に跡地を利用したと推測できる路地があるが、細切れ状態で確証はつかめない。

しばらく東に向った先の壺川[チブガー]東公園(B参照)には、公園整備時に発掘されたレールが少し曲がった状態で展示されている。貴重な展示品だが、写真に納めている間、残念ながらこの公園を訪れる人は一人もいなかった。
同時に車両も保存されているが、これは沖縄県営鉄道とは直接の関係はない。
B
03年3月
C
03年3月
参考資料4によると公園は壺川の駅跡との記述があるが、他の資料にはここに駅があったとの記述はない。また、公園に接して東西に延びる道路はいかにも鉄道の跡といった趣だが、実際にはこの道路の北沿い、発掘されたレールが展示してある場所付近に線路が敷かれていた。

その先もほぼ民家に転用された状態で、次駅の古波蔵[コハグラ]まで続く。この古波蔵には当時アルコール工場があった。今は雑草の茂るただの空き地と化すが、この空地の南側が駅跡で、ここから嘉手納線が北に分岐していた。

与那原線は続いて東に進むが、国道同士が交わる立体交差の大きな交差点を越すと、その先には廃線跡を転用した細い路地(C参照)がはっきりわかる形で残る。
この路地が途切れた先が初代真玉橋[マダンバシ]駅で、旧版地形図から読みとると、現在の沖縄県畜産会館のあたりか。
二代目の真玉橋駅は、国場川に架かる同名の道路橋近くに移動したが、駅跡付近に戦前のアーチ橋を模したモニュメントが造られている。

県営鉄道跡はほぼ国道と平行しながら更に東へと進むが、国場[コクバ]の手前で貴重な煉瓦造の橋台を見つけることができる。沖縄県保険医協会の建物の横(D参照)と、カーコンビニクラブの横(E参照)だ。
D
03年3月
E
03年3月
周囲をコンクリートで固められ当時の完全な姿ではないが、那覇を出て以来、間違いなくここに鉄道が通っていたという初めての証だ。

国場は引込線、留置線なども備えた大きな駅で、構内の東端から糸満線が南に分れていた。今は国道沿いのアパートの裏手にあたるが、空地、民家などが入組み駅跡の雰囲気は一切残っていない。

この鉄道は戦争によって壊滅的な打撃を受けたはずだが、これだけ年数がたつと他の廃線跡との違いも特になく、ごく自然に市街地に消えているといった印象を受ける。
しばらくは国道南沿いの宅地内に消えていた廃線跡は、一日橋の手前で生活道として姿を現す。この道が国道329号線バイパスにぶつかった地点が駅跡。

駅の東、国場川に架かる橋脚跡は少し前に一部確認できたようだが、今は川の護岸工事により全て姿を消している。

この先廃線跡は国道の北側に移るが、再度跡地をたどることは困難になる。ショッピングセンターなどもあるが、この裏側あたりを走っていたようだ。
F
03年3月
G
03年3月
南風原[ハエバル](F参照)は路地や駐車場となり、それなりの広場が残る。
その続きが、路地の延長線上にある病院の駐車場から、新たに一車線の生活道(G参照)として次の宮平まで続く。


駅の手前で国道と斜めに交差するが、越えたすぐの位置が駅跡。ただしこの駅は、参考とした下記地形図には記載がない。
駅周辺のみ民地として利用されるが、その先鉄道跡は再び舗装路(H参照)に変り、左カーブを描きながら一旦沖縄道をくぐる。道路周囲には、今も沖縄らしくサトウキビ畑が散在する。


この舗装路の終点が大里で、参考資料3によるとJAの給油所とあるが、旧版地形図はその北のアパート付近を指している。
H
03年3月
I
03年3月
駅を過ぎると一旦県道77号線に合流し、吸収される。

しばらくのち県道を離れ、東に向きを変えたその先は切通しだったが、現在は用水路(I参照)に姿を変えている。これは鉄道跡地の利用方法としては大変珍しい。

用水路は与那原警察署の手前で途切れ、その先の廃線跡は学校敷地や細い路地となる。
警察署東側のそれらしき道を進むと、やがて与那原農協裏手に出るが、この農協が終点与那原[ヨナバル]駅跡(J参照)。戦争で半壊した駅舎も修復され、当時の面影を残しつつ今も現役で活躍している。太平洋岸を走る沖縄軌道との乗換駅でもあった。

並行する道路を走るとよくわかるが最終区間の大里与那原間は急勾配の大変な難所で、那覇行列車が登り切れなかったとか、また反対向き列車のブレーキがきかずホームをオーバーランしたりとか、とにかく頭の痛い区間であったらしい。
J
03年3月

−糸満線−

K 03年3月
この線は路線の記載された地形図がなく、探索はカンと過去の経験が頼りだ。

与那原線国場から南東方向に分れた糸満線跡は、駅の東から狭い舗装された生活道として利用されている。国場川を渡りその後しばらく舗装路が続くが、国道329号線バイパスとの交差後は未舗装路(K参照)となり、その奥で行き止りとなってしまう。

これは翔南製糖工場の入口橋にふさがれるもので、この事務所敷地により廃線跡も消されるが、その先には再び舗装路が姿を現す。
また、国場川橋梁は道路橋に変更され、当時の構造物は確認できない。
次の津嘉山もこの道路沿いで、平行する国道507号線の津嘉山交差点から南に入ったあたり。さらに鉄道からの転用道路を進むと、国道沿のビルで行く手を遮られ、その先で国道に合流、吸収される。

この国道を東に進むと、三方向に分れる交差点に出る。右が国道の続き、左が県道82号で、直進が「幸之一カーブ」につながる鉄道跡。そしてこの交差点付近が山川の駅跡。
国道から分れた糸満線跡は、再び舗装路として整備され、先に続く。中央線も引かれ、また交通量も少なく、のどかな田園地帯を走る最適なドライブコースといった趣。

当初計画では、山川から稲嶺まではほぼ直線で結ばれるはずだったが、地元選出議員の要請により大幅に北へ迂回することとなった。ぐるりと180度回転するコースは、この議員の名を取って「幸之一カーブ」と呼ばれるが、北端に重なるように那覇空港道が建設されたため迂回した最大の目的駅喜屋武[キャン]は高速に下に埋れてしまった。
L 03年3月
M 03年3月
高速から離れると一部地道(L参照)となり続いて再び二車線道路として活用されるが、ちょうどサトウキビの収穫真っ最中で専用のダンプが忙しく走り回っている。このカーブが終り南に向きを変えると地方道にほぼ直角にぶつかり、一旦廃線跡は消える。当時、鉄道はこの地方道の下をトンネルで抜けていたが、現在は埋められてしまった。

その先は農地となり、区画も整理され、痕跡は全く不明となる。稲嶺も少し前まで構造物が残っていたらしいが今は跡形もなく、全く農地の中に隠れてしまっている。駅を出ると築堤上を駆上がり現県道77号に合流となるが、当時の築堤は既になく、また一部は県道の拡張に利用されているようだ。廃線跡はしばらくの間、この県道77号線に絡んで進んでいく。
次の屋宜原[ヤギバル]は参考とした旧版地形図には記載がないが、屋宜原団地の入口の交差点付近。廃線跡はここで県道から分かれ、何の痕跡も残さず団地内を斜めに抜け、未舗装の道路(M参照)として再び確かな姿を現わしてくれる。この道路はしばらくして舗装路に変るが、再度県道77号にぶつかろうとするその手前で緩やかなS字カーブを描く。そこが当地の主要駅東風平[コチンダ]跡で、今は商工会と南部水道企業団の建物が跡地を利用して建てられている。
駅のすぐ南は宅地や駐車場などに細かく分れ一旦鉄道跡は消えるが、町の密集地を抜けてからは二車線の道路として再利用される。しばらくはこの道路を南下し、そのまま世名城[ヨナグスク]に達するが、目標となるものが無く駅跡の特定は今ではかなり難しい。駅を過ぎると道路からはずれ、方向を大きく西に向け今度は東西に延びる県道52号線と平行し始めるが、残念ながら線路跡は畑の中に姿を消している。
N 03年3月
O 03年3月
高嶺(N参照)は現在のゲートボール場。すぐ南に隣接する自動車修理工場が駅舎跡で、その反対側、駅の北にあったはずの製糖工場は既に跡形もない。

廃線跡は駅の西で一旦民家にかき消されるが、その先でみたび県道77号と交差した後は、報徳川沿いに未舗装路として当時の路盤を残している。さらに数百メートル進むと、よたび県道77号とぶつかり(O参照)路盤跡は消滅するが、この先に当時のコンクリート橋梁(P参照)が今も残っている。遺構の少ない当線では大きな収穫だ。
この橋梁跡の西に位置するJA糸満が兼城[カネグスク]駅跡。更に県道77号の東側奥に民家と路地を織り交ぜながら線路跡は続いていく。
照屋の集落で県道が右にカーブを描くが、並走する県営鉄道も同時に方向を変えていた。この地点に当時の築堤らしきものが残っているが、20年ほど前まであった照屋トンネルもこの近くの場所。

一旦県道77号の数十メートル南まで離れた線路跡は、角地に自動車修理工場の建つT字交差点の西で最後の交差を終え、県道の北に位置を変える。
この先線路跡は不明のまま、終点糸満につながる。糸満駅も正確な位置の確認がとれないが、糸満小学校の東、糸満中学校の南あたりが妥当なところと考えられる。
P 03年3月

−嘉手納線−

この線も路線の記載された地形図はなく、探索は糸満線以上のカンが必要だ。
Q
03年3月
古波蔵で与那原線から分れた嘉手納線は大きく左カーブを描き、すぐ国道330号線と合流し北へ向う。カーブ地点に建つマンション(Q参照)は県営鉄道跡地に沿って立てられ、大きく湾曲している。写真左手が古波蔵、右奥は嘉手納方面。
国道330号はひめゆり通とも呼ばれ廃線跡を利用してつくられたものの、今では大きく拡幅されてしまい、鉄道を連想させるものは何もない。

与儀は与儀公園の真ん前。訪問した当日はイラク戦争反対の集会があり、周囲は大混雑していた。鉄道は与儀をでると築堤で次の安里を目指していたが、今はこの築堤も取崩され、その跡にできた国道330号は交通量も多く、地元には必要不可欠な道路になっている。

安里交差点上空には新たにモノレール駅が開業するが、鉄道の安里駅も当時はかなり高い築堤上にあった。同じ位置とは云わないが、高低も含めてかなり近いことは確実だろう。駅の東には女子学校があり、また首里へ向う沖縄電気軌道との乗換駅だったため乗降客は多かった。現在の安里交差点は渋滞が激しく、写真を写すにも一苦労する程だ。
安里を出てしばらくは国道330号線として北上するが、真嘉比交差点の手前で西にはずれ北に向う。その先は区画整理が終り、線路跡をたどることは難しくなる。国道に平行し西側にパイプライン通と呼ばれる道路が走るが、この一部は県営鉄道跡を再利用したもので、県道82号線と交差する付近から北に向ってしばらくの間が嘉手納線の線路跡。

内間もこの道路上で、駅跡は今 民地となっている。駅手前の内間川の橋梁には、少し前まで構造物が残っていたと参考資料1に記されている。また駅の北には左へ分れる専用線の分岐跡(R参照)が残り、細い一方通行の舗装路ながら鉄道のにおいを強く伝えている。

専用線はどこまで続いていたか不明で、道なりにたどるとT字路で突き当ってしまう。参考資料1によるとアルコール工場の専用線だったらしいが、それらしき土地、構造物もなく、今はすべて民地で囲まれ、当時の工場は跡形もなく消滅している。
R
03年3月

さて本線に戻って再びパイプライン通を北に進むと、大平養護学校を過ぎたところで鉄道は左に分れる。分れた先も廃線跡は二車線の道路に転用され、城間大通りと名を変える。しばらくこの道沿いに進み、国道58号線にぶつかる手前の給油所付近が城間[グスクマ]駅跡。
城間を出て国道58号に合流した後、やがて東に90度向きを変えるが、カーブが終った地点で国道から南に分れ牧港[マチナト]に達する。駅前後には廃線跡を利用した狭い舗装路が続くが、駅はこの廃線跡道路と牧港通が交差した付近。この道は牧港を過ぎると二車線道路に幅を広げ、大謝名[オオジャナ]まで続く。駅跡は商店に変わり、その先で線路跡は一旦姿を消す。

S
03年3月
さらにその延長線上の国道58号線大謝名交差点の歩道橋にあがると、位置関係がよくわかる。南は薬局、北は国道から西に少し入った場所を走り、国道と交差していたことが読みとれる。鉄道は当時県道だったこの道路下をトンネルで抜けていた。

今はトンネルが撤去されたため交差点前後の跡地は消えているが、ここを過ぎると細い生活道(S参照)として利用されはじめ、北に向きを変える。途中、一部区画整理等で途切れるが、北東に向きを変えた地点から再び舗装路として姿を現す。この付近にあったのが真志喜駅。
さらに跡地を転用した生活道が続くが、鉄道跡は大山の手前で一旦この道路からもはずれる。これは大山小学校前のゲートボール場をかすめ生活道と平行する路地へとつながっていくルートだ。この路地は短く、すぐに途切れ民家に消されてしまう。
いかにも当時からのルートに間違いないといった一本道から緩やかにはずれるので、ここは探索時の要注意。この路地と民家を抜けた嘉手納線跡は旧大山公民館前へと出て、無事先程の生活道に再合流する。

大山は、この道沿いのスーパーなどがある付近。
廃線跡はその先で一旦国道58号に吸収されるが、跡地を転用した道路はその手前で途切れる(T参照)。写真左が国道58号、右が廃線跡道路。
T
03年3月
U
03年3月
さらに宜野湾バイパスを斜めに横切った廃線跡は、国道58号と別れ伊佐浜の団地の脇を駆抜ける。ここからは再び跡地を利用した狭い舗装された道がしばらく続くが、少し先でまたも数軒の民家に行く手を阻まれる。ただ民家の北を流れる普天間川には歩行者用の橋梁(U・V参照)が架かり、佐阿天原橋梁と呼ばれた当時の構造物は何も残っていないものの、現在名「軽便橋」が線路跡であることを示している。

この歩行者橋、南側は公道につながるが北側は直接マンション敷地に入りこんでおり、利用者はかなり限られるようだ。1988年架橋の銘板が付くが、よくぞ廃止にならずに更新されたものだと感心する。
軽便橋を渡りマンション群を抜け北上すると、この延長と思われる道に出るが、これが嘉手納線の跡地かの判断は非常に難しい。付近一帯は戦後一旦米軍に接収されハンビー飛行場となり、それが最近返還され再開発されているため、一般的には過去の鉄道とは無関係と判断するのが妥当だろう。
したがって北谷[チャタン]駅も場所の特定は難しく、北谷2丁目6-2の住所から現在の商店付近と推測するしかない。

白比川を越えた桑江中学校の校門前あたりが桑江駅跡だが、新興の町にかき消された鉄道跡をたどるのは何とも味気ない。さらに次の平安山[ヘンザン]までは同じような状態が2キロほど続いている。
V
03年3月

平行する国道58号が北西から北に向きを変えた地点で嘉手納線は国道を斜めに横切り、西から東に位置を変える。ここは嘉手納飛行場の第一ゲートで、入口の南が平安山駅跡だが、当時の痕跡はやはり何もない。残念ながら今では平安山の地名すら消滅してしまった。

W
03年3月
この後県営鉄道跡は米軍基地の中に消え、野国は全て基地の中。一民間人が跡地を確認するすべもない。

基地を抜け再び姿を現すのは終点の嘉手納(W参照)だ。市街中心部のロータリー南西部から役場の東付近にかけてが駅跡だが、当時を物語るものは何もなく資料を基に推測するのみだ。旧道が変更され町の中心が変ってしまったのだから、これも仕方ないのかもしれない。
駅からスイッチバックし西に向って製糖工場への専用線も出ていたが、こちらも今ではたどることは不可能に近い。



保存

X
03年3月
Y
03年3月
  1. 壷川東公園=レール(X参照)
  2. 宜野湾市立博物館=台車(Y参照)
  3. 県立博物館=畜産衛生試験場構内から出土した枕木(未確認)
  4. 大平養護学校前=パイプライン通整備時に出土したレール(未確認)

最新の情報


参考資料

  1. 沖縄の鉄道/加田芳英 著/沖縄出版
  2. 失われた鉄道を求めて/宮脇俊三 著/文藝春秋
  3. ケービンの跡を歩く/金城功 著/ひるぎ社
  4. 鉄道ピクトリアル通巻309号/戦火に散った沖縄の鉄道/白土貞夫 著

参考地形図

1/50000   那覇 *[T10測図]   沖縄市南部 *[T8測図]   糸満 [該当無]   沖縄市北部 [該当無]
1/25000   那覇 *[T8測図]   与那原 *[T8測図]   糸満 [該当無]   沖縄市北部 [該当無]
  大謝名 [該当無]   沖縄市南部 [該当無]

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最終更新日2018-5/19  
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