三井石炭鉱業三池専用鉄道を訪ねて

廃止鉄道ノート九州・沖縄  減速進行

  地区:福岡県大牟田市 軌間:1067mm一部複線 動力:蒸気→電気
区間:三池浜〜三池港(9.3km)宮浦〜東谷(3.3km)原万田〜平井(4.1km)その他支線

月が出た出た♪の炭坑節で有名な三池炭砿。近年は「世界遺産で有名な」の金文字も加わった。2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部を構成するためだ。遺産群の中には三池炭鉱専用鉄道敷跡も含まれ、世界が認めた廃線跡となった。その歴史は古く、明治中期に石炭輸送のため敷設された馬車鉄道が始まりとなる。これはすぐ蒸気動力の専用鉄道に変えられ、やがて旅客営業も開始された。しかし石炭産業の衰退とともに再び貨物専業に戻り、徐々にその距離を縮めた後、炭砿の閉山と同時に使命を終えている。


 略史

明治 24 (1891) - 三井合名三池専用鉄道 開業
44 (1911) - 11/ 三井鉱山が独立、同社三池専用鉄道となる
昭和   〃  三池専用鉄道、三井化学玉名専用鉄道を統合
39 (1964) - 8/ 11   〃     〃    地方鉄道に変更、三池鉄道となる
40 (1965) - 3/ 11 三井三池港務所が独立、同社三池鉄道となる
48 (1973) - 8/ 1 専用鉄道に再変更
8/ 27 三井石炭鉱業に改組、同社三池専用鉄道となる
平成 9 (1997) - 4/ 1     〃   三池専用鉄道廃止、旭町線を三井東圧化学に譲渡

 路線図


 廃線跡現況 (一部に廃止直前の写真を使用)
本線
A 北の起点三池浜(A参照)は化学工場の駐車場などに変わり、駅跡の面影はない。ただし、南端をかすめる道路から今も当時のレールが顔を出し、場所特定の手助けをしてくれる。

最盛期には駅を起点に、西あるいは北へと支線が多数延びていた。
97年1月
南東方向へ向う本線は市街地を築堤で抜けていたため、道路や鹿児島本線とはすべて立体交差し、その橋梁跡(B・C・E・F・G・H・I・J・K参照)も大半が残されている。まさに怒涛といってもいいような陸橋の数で、少数派の水路橋(D・L参照)は肩身が狭そうだ。 B
97年1月

C D
19年4月 19年4月

E F
19年4月 19年4月

G H
19年4月 19年4月

I J
19年4月 19年4月

K L
19年4月 19年4月

M 最後の水路橋を渡ると旭町支線と合流し、宮浦(M参照)に到着する。この支線だけが三井化学に譲渡され、唯一廃止を免れた区間となる。しかし錆付いたレールを数多く抱え、ガランと静まり返った駅構内は、最盛期の活況とは程遠い。

以前は隣接する工場内から、さらに東方の大浦坑まで線路が延びていたが、その跡地は判然とせず、旧版地図により終点は廃棄物処理場あたりと読み解くしかない。
19年4月
駅の南に続くレールが途切れると企業用地に入り込み、線路跡をたどることは不可能となる。ここで勝立支線が東に分岐するが、今のところ調査する術はない。

本線側は、県道3号線との踏切手前から路盤が現れ、雑草の中にレール(N参照)も見え隠れする。
N
19年4月
O 県道との交差部(O参照)には、世界遺産の案内看板が掲げられている。複線分の路盤はきれいに整備されているが、19年時点で立ち入りは禁止されている。

なお沿線各所には解説板が点在し、探索の手助けをしてくれる。
97年1月
長めの切通を抜けた先に、レールを用いた橋梁跡(P参照)と踏切跡が現れる。

世界遺産の一角を占める宮原坑跡(Q参照)には見学用の駐車場があり、電気機関車型のトイレも設けられている。本線は掘割で東脇を通り抜けていたが、坑内にも多数の枝線を延ばしていた。
続く諏訪川(R参照)にはプレートガーダー橋が残され、複数のパイプラインが載せられている。
P
19年4月

Q R
03年1月
03年1月

S 橋の先からはゴムシートで歩行用の通路が確保され、路盤上への立ち入りが可能となる。

この中でホーム跡を見せているのが万田(S参照)で、隣接する跨道橋(T参照)も残されている。
19年4月
駅南方に位置する万田抗跡も世界遺産を構成するひとつだが、この東側を通る短い支線も存在した。細い川沿いだが既に痕跡はなく、二車線道路に突き当たって終了する。 T
19年4月
U 本線側はそのまま大牟田市から離れ、隣接する荒尾市の妙見(U参照)まで進む。跡地にはレールで組まれたホームの骨格だけが残されている。

ここからは上空に送電線が伴い、鉄塔がレール跡をまたいで何カ所もそびえ立つ。遠くからでも場所の確認は容易だが、散策路整備中のため19年時点で立ち入りは制限されている。
19年4月
駅を出ると西に向きを変えつつ、築堤上に位置する原万田(F参照)に滑り込む。相対式ホームがいまだ健在で、国鉄荒尾駅への側線(W参照)と玉名支線もここから分岐していた。

大牟田市側同様、築堤で市街地を越えていたため、駅周辺には鹿児島本線との跨線橋(X参照)や国道、県道、市道との跨道橋(Y・Z参照)が連続する。
V
97年1月

W X
03年1月 19年4月

Y Z
19年4月 19年4月

AA 西進する路線は国道389号線との交差付近で地上に降り、その手前に西原(AA参照)が設けられていた。緩やかな曲線を描く相対式ホームが残存し、国道の西方には溝橋跡(AB参照)も観察できる。

ここで荒尾駅からの連絡線と合流するが、その線路跡は駐車場(AC参照)や道路、宅地等に利用されている。
97年1月

AB AC
19年4月 19年4月

本線側はすぐ隣に四ッ山(AD参照)が置かれていた。ここで地上線と、ホッパーに駆け上がる高架線に分かれる。ホームの遺構は見当たらないが、高架側には今も架線柱が姿を残し、煉瓦造りの跨道橋跡(AE・AF参照)も健在だ。

なお三池みなと新聞262号に記された三井化学荒尾工場前は、場所を探すきっかけすら掴めていない。
AD
97年1月

AE AF
19年4月 19年4月

AG 駅の北で最後の右カーブを終え、再び大牟田市に戻ると、終点の三池港(AG参照)へ到着する。駅は貯炭場も兼ね、広大な敷地を有していた。
しかし19年時点で一部は有明沿岸道に利用され、残りの大半も更地に戻されて、運炭路線の面影は完全に消失してしまった。さらに北側の旅客駅付近では新たな工場建設も始まっている。
97年1月

勝立線
本線の宮浦から東に別れていた支線で、分岐部は企業敷地に囲まれるため立ち入りができない。また大正15年の地形図から、当初は万田方面から分岐していたことも読み取れる。

工場地帯を抜け出ると一車線道路の南側を併走し始め、跡地は工場や店舗等に利用される。しばらく進むと道幅が若干広がり、隣に大牟田川が接する(AH参照)。現状からは線路跡の一部が道路拡幅に使用され、残り部分が河川改修に用いられたと推測できる。
AH
19年4月
AI 道路はそのままスーパーに突き当たる(AI参照)。勝立抗の西にあたり、当初はここが終点となっていた。

参考資料1に記された勝立人事前、あるいは三池みなと新聞の勝立馬渡が共に同所を指すと思われる。
19年4月
この先も市道の北側に隣接して東に向かうが、跡地は道路に取り込まれたのか、住宅に変わったのか、あるいは両者で分けたのか、地元での聞き取りも叶わず、やむなく判断を保留した。

終点の東谷(AJ参照)は東谷団地前バス停の西方で、民家の建ち並ぶ区域と思われるが、やはり正確な位置の特定はできなかった。
AJ
19年4月

緑ヶ丘線
AK 地形図には三池原万田線と記され、参考資料2では玉名支線、他にも平井線の呼称もあり、まさに変幻自在な路線名を持つ。

原万田で本線から別れ、右にカーブを描いて進行方向を南に変える。本線同様、築堤で市街地を通過するため、跨道橋(AK・AL参照)が四ヵ所連続していたが、19年時点では一ヵ所で片側の橋台(AM参照)が残るのみとなっている。
築堤跡も大半が新興の住宅地に変わり、こぐ一部が生活道として再利用されている。
03年1月

AL AM
03年1月 19年4月

市街地を抜けると放置された築堤が続き、藪地化した路盤上に入り込むことは難しい。

途中に設けられていた大平(AN参照)も、旅客営業時代のホームは雑草に覆い尽くされ、足の感覚でわずかに認識できる程度となっている。
AN
03年1月
AO 駅南側の跨道橋(AO参照)は、橋台が両側共に残されている。

線路跡はその後、右手から合流してきた道路に取り込まれ、宮内(AP参照)まで進む。ここに残るホーム跡は、人の手により維持管理されている様子がうかがえる。
駅の東からは道路沿いの空き地(AQ参照)へと変わり、一部には工場等も建つが、やがてゴルフ場脇の雑木林に飲み込まれて姿を消す。
03年1月

AP AQ
03年1月 19年4月

大谷(AR参照)はゴルフ場の管理用地内で、痕跡も見当たらず正確な位置は判然としない。

付近一帯はゴルフ場を含めて、リゾート施設三井グリーンランドとして開発され、駅から先はこの施設内および隣接する店舗を通り抜けることになる。
AR
19年4月
AS 終点平井(AS参照)は岱洋区交差点の北東にあたるが、既に県道314号線沿いの店舗に取り込まれ、鉄道の面影はどこを探しても出てこない。

従業員輸送が目的の路線で、沿線には炭住と呼ばれる社宅が多数点在したが、こちらもすでに姿を消した。
19年4月

その他支線・側線
三池浜から北に向かう銀水線。化学工場を抜けたのちは空き地が続き、短い藪地を過ぎると民家前に路盤(AT参照)が現れる。一部が地元の駐車場や家庭菜園等に利用されている。 AT
19年4月
AU この直後に渡る堂面川には橋梁(AU参照)が残され、手直しを経て、今もパイプライン用として再利用されている。

川の右岸には築堤が一区画残るものの、その先は工場内に入り込んでしまうため跡は追えない。
03年1月
北埋築線は化学工場内を抜けたのち左に曲がり、その北縁を西に進んでいた。多数の枝線を抱えていたが、メインルート(AV参照)は二車線の市道拡幅に利用され、終点付近は近年流行の太陽光パネルに占拠されている。 AV
97年1月
AW 三池浜から直接西に向かう線は、工場脇に路盤(AW参照)が残され、突き当たった運送会社の先まで線路が続いていた。
19年4月
四ッ山からの四山港支線は、本線からの分岐付近に線路跡(AX参照)をわずかに見て取れるのみで、それ以外の確実な痕跡は見つけられない。
終点附近にはやはり太陽光パネルが広がり、旧四ッ山抗も既に炭砿の面影はない。
AX
19年4月
AY 同じく四ッ山から北西に向かう側線では、左カーブ直後の小橋梁(AY参照)を見つけることができる。かなり錆付いているものの、プレートガーダーも健在だ。
19年4月
その後は発電所の外壁に沿った空き地(AZ参照)として続くが、やがて企業敷地内に入り込み、跡地をたどることは不可能となる。 AZ
19年4月
BA 三池港からも各方面に枝線が延びていた。

その中の一つ、西へ延びる線に以前は廃車体(BA照)が放置されていた。既に撤去されているが、当時から周辺は大きく変貌し、いまだに撮影地点を探し出せていないのが残念なところ。
97年1月
側線の多くは貯炭場へつながり(BB参照)、石炭粉末のせいなのか、沿線では今も雨上がりの水たまりは若干黒く見える。

また本線と線路はつながっていないが、北側を流れる諏訪川に三川抗内線(BC参照)の橋梁跡(BD参照)を見つけることができる。当時の雰囲気を十分に残し、長く残ってほしいと願うばかりだ。
BB
97年1月

BC BD
97年1月
03年1月

 参考資料

  1. 産業考古学第101号/三井三池炭鉱の産業考古学−三池専用鉄道−/辻直孝 著
  2. 鉄道ピクトリアル通巻434号/三井三池の炭鉱鉄道を訪ねて/吉富実 著

 参考地形図

1/50000  大牟田 [T15二修/S6鉄補/S34部修]    荒尾 [S26応修]
1/25000  大牟田 [S45測量]  荒尾 [S45測量]

 
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