肥前電気鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート九州 減速進行

 地区:佐賀県嬉野市  区間:嬉野~塩田9.7km  軌間:1067mm単線  動力:電気

創業当初は彼杵から莇原[あざみばる]への本線と、途中で分岐し武雄へ向う支線を計画した肥前電気鉄道。本線側は大半が県道上へ線路を置く併用軌道を予定していたが、その後変更を重ね、第一段階として嬉野~塩田間が専用軌道で開業した。続く彼杵への延伸も、大半の用地買収は終了していたようだが、業績の低迷により、ついに日の目を見ることはなかった。

略史

大正 4(1915) - 12/ 21  肥前電気鉄道  開業
昭和 6(1931) - 12/ 25     廃止

路線図



廃線跡現況

A
19年4月
塩田駅跡
祐徳軌道からの乗換駅塩田(写真A)にはそれらしき痕跡、雰囲気が全く残らない。美野専立寺跡の石碑あたりとの話も聞いたが、確証はなさそうだ。水路脇の農道は以前、塩田川と北方の常在寺を結ぶ参道に相当したようで、旧版地形図ではこの西側に駅が描かれている。
B
18年3月
宮之元駅跡
西に向う路線はその後の耕地整理によりきれいに消去されている。ただ昭和30年代の空中写真から、わずかに残されたルートを読み取ることもできる。農地を抜け一旦県道28号線と交錯したのち、その南奥を走ると宮之元(写真B)に着く。跡地は新興の住宅地に取り込まれ、やはり正確な位置は不明だ。
C
19年4月
美野駅跡
線路跡は駅の西から舗装道路に転換され、鉄道らしい緩やかなカーブが続く。途中から県道346号線となるが、電車みちでも通用する。しばらく道なりに進んだ先、道路沿いの店舗が美野(写真C)となる。地元では今も停車場と呼ばれているらしい。
D
19年4月
駅西方の小橋梁(写真D)は南半分が石積橋台、北半分がコンクリート橋台で施工され、この石積側を鉄道用の再利用と推測した。
開業後に追加された橋山(写真E)は地形図に記載がなく、前後駅からの距離計測によりおおよその位置を把握するにとどまった。駅の先で鉄道側は一車線道路(写真F)として北に分離し、今度はこちら側に電車みちの呼称が付くと教えてもらった。

E
24年3月
F
19年4月

G
20年9月
道路が突き当って左に折れると少し先に小橋梁跡(写真G)、さらに続けて石積の橋台(写真H)を見つけることができる。
橋の先は農地となるが当時の地割がそのまま残され、石垣に支えられた低い築堤(写真I)も認められる。

H
18年3月
I
19年4月

J
19年4月
大草野駅跡
行き違い施設を持つ大草野(写真J)跡には民家が建ち、やはり停車場と呼ばれていたこと、19年時点で人は住んでいないこと等の話を聞いた。
地形図に描かれた位置と異なるが、当然というべきか地元での教示を優先した。
K
19年4月
その後は民家や工場内を抜け、痕跡を消したまま塩田川へ向かう。右岸では路盤上に建つ住宅一軒と、続く藪地(写真K)を経て対岸へと渡るが、同所の橋梁痕は既に影も形もない。
左岸の農地内でほぼ直角に向きを変えた路線は、一車線の生活道に合流する。ここからは線路跡を転用してつくられた道となる。
L
19年4月
式浪駅跡
道路上を進むと今度は右急カーブで南西に反転する。カーブ終了地点の十字路西方が式浪(写真L)で、ここも角地の民家が停車場と呼ばれていたことを耳にした。戦前に廃止された鉄道にもかかわらず、地元の皆さんの関心は高いようだ。
M
20年9月
続いて左カーブで南に向きを変える、と同時に国道34号線に吸収される(写真M)。国道上の今寺(写真N)は、精度の低い旧版地形図を片手にいくら探しても判然としないが、参考資料1に現在の仏壇店と明記されている。
続く嬉野茶販売店付近で国道から右に別れると細い路地が現れ、この北側に沿った畑(写真O)が線路跡と聞いた。以前は、地中からバラストが出てくることもあったらしい。

N
20年9月
今寺駅跡
O
19年4月

P
19年4月
畑の先は民家に取り込まれるが、一部に線路用地の境界線(写真P)が残される。写真右側の民家は鉄道建設の際、用地内に当時の建物がはみ出していたため曳家で移動させたとのこと。短距離の鉄道とは言え、細かい努力が各所で重ねられたことを物語っている。
Q
19年4月
さらに数軒の民家を経て連続高架橋工事の現場に出る。何かと話題の多い九州新幹線長崎ルートだ。当時の路線はその高架をくぐり、痕跡の消えた下宿川を渡り、国道沿いのドラッグストア駐車場を抜ける。南西に隣接する二階建の廃屋(写真Q)が線路跡に建てられたことや、道路でもないのに電車みちで通じるとの面白い話も地元で教えてもらった。
R
19年4月
これ以降も相変わらず民家や店舗等が建ちふさがり、ルートを直接たどることは難しい。そんな中、築城交差点北西の空き地南端(写真R)が、線路用地との情報を得た。目印のように白いコンテナが置かれた場所だ。
S
01年01月
空き地を過ぎると細い路地が現れ、北沿いに建ち並ぶ住宅が鉄道の路盤を利用している。下宿(写真S)もこの東寄りと思われるものの、残念ながら正確な場所の確認は取れなかった。
T
19年4月
路地の先は生活道(写真T)へと転用され、若干道幅も広がる。ただ電車みちと呼ばれることに変わりはない。
U
19年4月
そのまま児童公園を通抜け、国道と交差して位置を南に変えると終点の嬉野(写真U)に滑り込む。19年時点では駅跡にアパート等が建ち、駅舎は隣のたこ焼き店付近との話も聞いた。しかし、本社や車庫を併設した大きな構内は全て市街地に埋没し、昔日の面影を探し出すことは難しい。

-未成線-

V
24年3月
参考資料2に彼杵から2マイル、中間地点で0.5マイル、嬉野で1マイルの未成線があると記されている。中間地点は探し出せなかったが、両端部は1947年の空中写真から一部ルートを見出すことが可能で、嬉野西方の区間(写真V)は道路に転用されたと考えてよさそうだ。
W
24年3月
官設鉄道との接続駅彼杵近くの彼杵川では橋梁工事が行われ、上流側に水切を設けた橋脚(写真W)の残骸が、今も川原に取り残されている。また河川前後には未成部の地割を引き継いだ民家や駐車場も認められ、一部は送電線の用地として電柱が建ち並ぶ。しかし市街地の先は圃場整備の済んだ農地の中に飲み込まれ、痕跡は消える。

参考資料

  1. 観瀾その16/祐徳軌道と嬉野電車/森四朗 著/嬉野市歴史民俗資料館
  2. 鉄道ピクトリアル通巻471号/肥前電気鉄道沿革史/谷口良忠 著

参考地形図

1/50000   鹿島 [T6修正]   早岐 [T14修正]
1/25000   嬉野 [該当無]   鹿島 [該当無]

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最終更新日2024-4/4  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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