地区:佐賀県佐賀市 区間:高尾〜崎村/6.7km 軌間:914mm/単線 動力:蒸気
肥筑軌道はその社名が示すとおり、筑後の久留米と肥前の佐賀を結ぶ目的で設立された。しかし久留米側では筑後川に架橋する資金が不足し、佐賀側も市街地に乗り入れることができなかったため、沿線に大きな集落のない中途半端な区間での開業となった。開業後も延伸工事を続けたが、両都市に未達のままでは業績が好転するはずもなく、十年程の運行で幕を閉じた。正式な廃止は昭和10年とされているが、前年には既に運行を休止していたようだ。
略史
大正 |
12(1923) - |
5/ |
24 |
肥筑軌道 |
開業 |
昭和 |
10(1935) - |
6/ |
6 |
〃 |
廃止 |
路線図
廃線跡現況
集客を考慮すれば地域の中心地、佐賀市から敷設すべき路線だが、その市街地外縁にすら届かない隣の巨勢村高尾(A参照)がこの鉄道の出発点となっていた。
佐賀市の拡張と共に、今は市街地に取り込まれた駅跡には案内板が立てられ、その歴史を後世に伝えている。
駅の南側に橋台(B参照)を見つけるが、既に崩壊寸前で、いつまで確認できるのか懸念される。
この地域は水路が縦横無尽に張り巡らされ、痕跡も多いかと期待したが、耕地整理によって大半の水路の位置が変えられたため、収穫はゼロに近い。農業用としてはやけに幅の広い水路はクリークと呼ばれ、水を流す目的ではなく、ため池代わりの貯水用途で開削され、地元では堀とも称される。
南東に向かう路線は痕跡の消えた農地の中をしばらく進み、県道20号線と交差する。この交差部に犬尾が設けられていたが、当時を知る人も見つからず、駅跡の特定は断念した。
更に田圃の中を抜けて蓮池(C参照)に達する。線路は集落を分断するように走り、駅は既に廃業した薬局の南東に位置した。また南側の空き地は、留置線のあった場所だとの話も聞いた。
駅の東は再び田圃となるが、この中に建つ一軒家への進入路(D参照)が肥筑軌道跡となる。
当路線の中で唯一道路転換された区間で、以前は蓮池まで続き、やや短くなった今も地元では軌道みちと呼ばれている。
更に農地の中を抜け、中地江川を渡る。川底に転がる石材(E参照)が橋脚の遺構と考えられるが、完全に崩落した姿は、やがて人知れず消え去る運命を予感させる。
川を渡り、小松神社を通り過ぎた先のクリークにも、石積橋台(F参照)を確認することができた。
ただ、対岸は線路跡をクリークとして開削したため、痕跡は何も残されていない。
橋の東方に狭い舗装路(G参照)が続き、これが軌道みちと呼ばれるなら二例目となるが、残念ながら現地で確認は取れなかった。
集落の北に沿って少し進むと再び橋梁跡(H参照)が現われ、こちらは両岸ともきれいな石積み状態を保っている。住宅地のため、土地や水路の整理が実施されていないことが幸いしたようだ。
この先で平行してきた県道20号線と交差する。ここに蒲田津が設置されていたが、情報が集まらず駅位置の特定は諦めた。
駅を出ると、やや北に向きを変え城原川にぶつかる。川の中央に石積の橋脚(I参照)が顔を出しているが、これは水位の低い時に限られる。
川を越えてからも圃場整備の済んだ農地内を走るため、線路跡を直接たどることは不可能で、途中の小鹿にも目印となるものは何も残されていない。
終点の崎村(J参照)は冠者神社前交差点の南西に設けられていた。
東寄りに転車台があったこと、40年程前は南西に向かって石垣の築堤が続いていたこと、その石を各家が持ち帰り自宅で使用したこと、地元でも以前に肥筑軌道の調査をしたこと、等の話を聞くことが出来た。
線路は終点の先も更に続くが、開業に至らなかったため未成線に区分される。ルートの大半は開業線同様、圃場整備された農地に飲み込まれるものの、神代地区の水路に石積の橋台跡(K参照)を認めることが出来る。
さらに東側を流れる田手川に残された橋梁跡(L参照)は、周囲に石材が散乱し、若干原型が崩れているようだ。川の先で化学工場をかすめると、三軒屋集落の南端付近に達し、ここが未成線の終端となる。
なお参考とした地形図には営業線として記されていることや、沿線で聞いた、下神代、上神代を経由して藤ノ木の下まで走っていたとの話、大日本職業別明細図第277号に崎村から先の路線と次駅の快楽が記されていること等から、許可を得ずに何らかの形で列車を運行していた可能性も考えられる。
参考資料
参考地形図
1/50000 |
佐賀 |
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1/25000 |
佐賀南部 |
[S6二部] |
羽犬塚 |
[S6鉄補] |
久留米西部 |
[S6鉄補] |
最終更新日2018-5/8
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