地区:福岡県遠賀町 区間:遠賀川~西芦屋/6.1km 軌間:762mm/単線 動力:蒸気→内燃
背後に筑豊の炭砿を控え、遠賀川の舟運による石炭の集積地として発展した芦屋地区。鉄道には縁がなかったため、地元有志により、町の中心と鹿児島本線を結ぶ連絡鉄道が計画された。ただ経営は当初より厳しく、昭和初期に早くもその使命を終えている。一旦廃止された路線は戦後米軍の専用線として復活し、さらに国鉄芦屋線への移行を経て昭和中期まで運用が続いた。
路線図
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略史
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大正 |
4(1915) - |
4/ |
13 |
芦屋鉄道 |
開業 |
昭和 |
7(1932) - |
4/ |
25 |
〃 |
廃止 |
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廃線跡現況
鹿児島本線との接続駅となる遠賀川(写真A)。軌間の違いから直接の乗り入れはせず、現在の駅前広場片隅に始発駅を置いた。西に向かう路線は、一旦県道299号線沿いの店舗内に姿を隠す。ただこの先からはじまる生活道(写真B)が、当時のルートに一致する。
道路の突き当りに流れる西川(写真C)。木橋なのか鉄橋なのか、鉄道を渡した橋の構造は定かでないが、現在の河川内には何の痕跡も残されていない。
対岸の遠賀町役場内で右急カーブを描き、北に向きを変えると同時に県道285号線(写真D)に吸収される。ここからの県道は、芦屋鉄道の線路跡を拡幅転用して建設された区間に入る。ただし、国道3号線遠賀バイパス付近からは、当線を再生した国鉄芦屋線跡の転用とするのが正確だ。
現在の「松の本」北端に置かれていたのが松ノ元(写真E)。駅名を含め、旧版地形図では、近接する集落名が新屋敷とされるのも不思議なところ。
駅の北で戸切川を渡るが、橋梁長を最短にすべく前後で大きなS字カーブを描く。戦後の空中写真には東岸にふたつの弧が写り、外側の急カーブを芦屋鉄道跡、曲率の大きな内側を国鉄芦屋線跡と捉えてよさそうだ。道路化されたのは後者で、前者は圃場整備された農地の中に跡形もなく消える。
続く前川を越えた先が鬼津(写真F)となる。
利用客が少なく、開業早々に閉鎖された島津(写真G)は地形図に記載がなく、前後駅からの距離計測と集落へのアクセスを考慮し、おおよその位置を把握したにとどまる。これは当線の距離が小数点一桁までの哩分表記のため、誤差が160m程発生し、正確な計測が不可能なことも要因となる。ちなみに哩鎖表記の場合、誤差20m程の範囲で場所を絞り込める。
二代目浜口(写真H)は、名所案内図で西からの旧道交差部に描かれる。今は北側に同名バス停が設けられるため、ここを駅跡と推定した。なお乗客数は上記島津と同レベルだが、こちらはなぜか途中廃止を免れたようだ。
二年足らずで場所を移した初代浜口(写真I)も地形図には載らず、距離計測により浜口公民館前交差点前後と判断したが、やはり正確さに欠ける。さらに北上する路線は緑ヶ丘交差点で県道から右に分離し、高浜町児童公園(写真J)内に入る。
この先は住宅街に飲み込まれ、ルートを直接たどることは難しくなる。途中の高浜町公民館は、各地の例から線路跡を利用した可能性が高い。また東芦屋(写真K)も痕跡は認められず、立入禁止とされた国有地が駅跡の一部ではないかと想像するのみだ。
駅の北で県道284号線と交差した後、路線は向きを北西に変える。
その左カーブ地点に建つスーパーを抜けると、今度は一車線道路(写真L)に合流する。若干の屈曲が認められるものの、基本は線路跡の転用と考えられる。道は芦屋中学のグランドに突き当って終了し、これを越えた先に終点西芦屋(写真M)が設けられていた。
跡地は市役所駐車場と民家に変わるが、はっきりとした痕跡が残されるわけではなく、国道495号線に向けた石碑(写真N)がその歴史を後世に伝えるのみだ。
参考資料
- 崗12号/芦屋軌道/小川健次郎 著/芦屋町郷土史研究会
参考地形図
1/50000 |
折尾 |
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1/25000 |
折尾 |
[T11測図] |
制作公開日2024-4/19 *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成*
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