朝倉軌道を訪ねて

廃止鉄道ノート九州・沖縄  減速進行

 地区:福岡県朝倉市 区間:二日市〜杷木/新町〜上田代 軌間:914mm 動力:内燃

ゲテもの趣味のマニアには垂涎の的となる軌道。何ともユニークな車両の写真が趣味誌等にも発表され、保存車両が残っていればとの想いが日ごとに募る。東の横綱が根室拓殖鉄道なら、西の横綱は間違いなくこの朝倉軌道だろう。
ただ車両に比べて廃止跡は何とも味気なく、各地の一般的な併用軌道跡と同様ほぼ全線が道路に戻され、残念ながら興味ある痕跡等の発見はごく一部にとどまる。また旧版地形図以外にこれといった資料を見つけることもできず、ちょっと怪しげな訪問記になってしまった。


 略史

明治 41 (1908) - 11/ 14 朝倉軌道 開業
大正 10 (1921) - 7/ 1 中央軌道 開業
昭和 4 (1929) - 1/ 11 朝倉軌道 中央軌道を譲受、田代線とする
15 (1940) - 4/ 20   〃 廃止

 路線図


 廃線跡現況
−朝倉軌道−

JR鹿児島本線二日市駅前にこの鉄道の始発駅二日市(A参照)があった。
かつて奇抜な車両が発着したとは思えないほど、ごくごく普通で地味な様相だ。ちなみに車両の写真は下記参考資料などに紹介されている。

日市を出ると旧国道3号線までの短い間が専用軌道で、一部が狭い舗装路(B参照)として再利用されている。この軌道で線路跡と確認できるのは、後にも先にもこの区間のみ。貴重な存在だ。
ただ開業当初の朝倉軌道はすべて併用軌道で、旧二日市も国鉄駅からすこし離れた旧国道3号線上にあった。時期は不明だが、その後、乗客の便を図るため旧国道の西側に専用軌道を敷設し国鉄駅前に乗入れている。
A 03年1月
軌道跡はその先で一旦旧国道3号線上を南下した後、東に分岐する県道112号線、おびその先の国道386号線上へとつながっていく。この国道386号線は別名朝倉街道とも呼ばれ、朝倉軌道はここから先すべてこの街道上に敷設されていた。

次の朝倉街道で西鉄と平面交差しその東側が駅跡となるが、交差跡共々今は跡形もない。西鉄にも同名の駅が設置されている。
県道112号線は徐々に東へと進路を変え、九州の大動脈国道3号線と交差する。これをアンダーパスししばらく進み、県道53号線が分岐する長岡交差点の手前に針摺峠があった。同所に設置されたバス停名は盲学校前。

県道は徐々に南東に進路を変え、宝満川を越えて杉馬場に達する。現在はこの杉馬場の地名は消え、二[ふた]と変っている。
B 03年1月
駅の東で原田線と交差(C参照)するが、こちらは当初から立体化され国鉄側が上を通過していた。何の違和感もない風景なので見逃しがちだが、道路のみとの交差なら通常は踏切が設置されるはずの場所で、このような立体交差跡は、道路上に軌道が敷設されていたことの一つの証ととらえることもできる。道路はここから国道368号線と名称を変える。

朝日を過ぎ、さらに街道上を南東方向へと向うが、途中に次の各駅があった。中牟田は同名のバス停があり道路にそれなりの広がりが残る。石櫃は参考地形図から交差点の東側が駅跡と推測される。篠隈は同名の交差点があり、長者町には同名のバス停が設置されている。
C 03年1月
当初は同名交差点と共に同名のバス停があり、栗田(D参照)も同じく同名のバス停が存在する。久光は緩やかなカーブ付近と思われるが、バス停もなく場所の特定は不可能。続いて草場川を渡ると中央軌道との乗換駅依井へと到着する。中央軌道側の駅名は当初新町で、場所がやや離れているため、乗換には歩く必要があったようだ。

次の甘木川は神田町交差点の西。ただし駅の近くを流れる川の名称は「小石原川」。さてどこからこの駅名が付いたのか、不思議不思議。
川を越えると両筑軌道との分岐点にたどり着く。現在の甘木総合庁舎入り口交差点付近だ。ただここには駅がなく、その先の甘木が乗換駅だったことを旧版地形図から読みとることができる。両筑軌道は小石原川に沿って北上し、秋月を目指していた。
D 03年1月
E 03年1月

甘木(E参照)周辺は現在工事中で、バスセンターを取り壊し、小さなバス乗り場と仮の駐車場となっている。軌道の乗場は道路上だったが、この地方の中心地でもあり、また両筑軌道も乗入れていたため設備としてはかなり大きな駅だったことが推測できる。

甘木を出ると南に位置する「田主丸」に向う両筑軌道と再度分かれるが、分岐点には両筑軌道のみ駅が設けられていたようだ。現在ここにはバス停があり、希声館前の名となっている。
国道386号線は甘木で朝倉街道から日田街道と名を変え、朝倉軌道は杷木を目指してこの日田街道上を南東に進む。甘木の密集地を抜けた先、石の橋交差点には少し道路の広い部分があり、いかにも駅跡らしい。ここが石ノ橋と思われる。さらに地蔵茶屋一里塚十文字と続くが、それぞれ同名のバス停と同一場所と推測する。

これ以東5kmほどの間は探索時に持参した旧版地形図が空白となっていて、途中檻畑中町比良松古毛菱野の各駅は確認が取れなかった。下に記載した発行年の地形図を準備すれば空白もなく、駅の位置も読みとることができる。続く恵蘇宿もやはり国道386号線上で、江蘇八幡宮の真ん前に相当する。次の志波も同名のバス停が駅跡か。交差点名とともに「志波」と表示されている。久喜宮はバス停もなく、今では場所の特定は難しい。
朝倉軌道はこの東にある浜川交差点から国道386号と別れ、旧道上に進路をとる。

旧道を東にしばらく進むと終点杷木(F参照)だ。ここは町の入口に位置し、今はバスとタクシーの営業所として利用されている。

駅の手前、寒水(そうず)橋の横にH鋼が不自然なままむき出しになっているが、こういったものを見つけるとすぐに鉄道との関連を考えてしまう。他人には可笑しく映るのだろうが、これもまた楽しみの一つで、角度を変えてはいろいろ眺めてみたが結局は朝倉軌道と関連があったのかなかったのか、全く判断がつかなかった。
また駅跡を境として道路の幅員が狭くなると同時にセンターラインも消滅し、軌道がここで終わっていたことを如実に物語っている。
F 03年1月

−中央軌道−

G 03年1月

この線は朝倉軌道線と異なり、一部ではあるが新町飛行隊前等に専用軌道を有していた。廃止後すぐに道路に戻る併用軌道と違い、当時の姿をとどめたものを発見できないかと期待はふくらむ。

朝倉軌道との接続駅である新町(G参照)が起点で、西に向いて停車している車両は駅を出るとすぐ左カーブで南へと進路を変えるが、駅跡とこの急カーブは現在民家やJAなどの敷地に取り込まれている。敷地内にそれらしき境界線もあるが確証は得られない。JAを抜けると、その後は農地に転換され鉄道の跡地は全く消える。
次の姉木原は現在の高上集落にあるが、当時の道路も新たに付け替えられておりやはり駅跡の特定は難しい。さらにこの先も同様に農地としての区画整理が進み、線路跡をトレースすることは不可能で、かつて鉄道があった匂いすらしない。

旧版地形図を頼りに先に進むと小さな集落の西はずれに出る。ここが野町で、県道594号線の西に駅があったようだ。現在の幼稚園のあたりではないかと推測するが、これとて確証はない。
その後、徐々に県道594号線に近づき、山隈の手前から並走を始める。ただ県道脇にそれらしき痕跡が見あたらず、軌道敷が道路の拡幅に利用された可能性が大きい。駅跡には何も残っていないが、場所は県道が緩やかにカーブする付近だ。
そのまま道なりに南下すると甘木鉄道にぶつかる。中央軌道の廃止が昭和15年4月19日、そして甘木鉄道の前身国鉄甘木線の開業が昭和14年4月28日となっている。

これから見ると両鉄道が交差していた時期が約1年ほど存在したことになるが、実際に交差部があったのかは、はなはだ疑問。国鉄線の建設に伴い、中央軌道側が廃止に先立ち運行を休止したと考える方が合理的な気がする。

いまでは甘木線も第三セクターの甘木鉄道に転換され、この交差部は原地蔵踏切と呼ばれている。

軌道跡はこの原地蔵踏切付近から県道を西に離れ、現在の国道500号線と交わるあたりに飛行隊前が設置されていた。付近の集落名は大刀洗だが集落の南に大刀洗飛行場があり、駅名はその関係から命名されたと考えられる。飛行隊前から南は細いが舗装された生活道(H参照)に転用され、線路跡を確認できる貴重な場所だ。
H 03年1月
この道は国道500号線の旧道に突き当った地点で消滅するが、ここで軌道は二方向に分岐する。直進側は今は無き飛行場へ向かう支線、もう一方の本線は右に折れ旧道上を併用軌道線として進んでいくこととなる。
当時は飛行場につながる取付け道路があり、この道路上に支線が敷設されていたが、今はここも一部は宅地化され、当然ながら軌道跡も消滅している。また飛行場そのものが民地となり、支線の終点も住宅地の中に消えている。

さて本線に戻り旧道を西進すると、大正8年架設の大刀洗橋(I・J参照)が見つかる。幅員がかなり広く、当初から軌道併用を目的として造られたことがよくわかる。
I 03年1月
痕跡の少ないこの軌道の中で、この橋梁は前出の生活道とともに貴重な存在だ。その後旧道は駐車場等の民地に転換され一旦消滅するが、その先で再び姿を現し現在の国道500号線に合流する。合流点の手前、南西へ向きを変えるカーブ地点にあったのが花立

その後は終点上田代の手前まで甘木鉄道と平行しながら、この国道上を進むこととなる。中央軌道は国鉄との接続を鹿児島本線の田代駅に求めたが、甘木鉄道はその一駅北の基山を接続駅としている。
次の十文字は参考とした旧版地形図から、同名交差点のど真ん中にあったことが読みとれる。

さらに国道が南西から西に方向を変える地点にあったのが薬師町で、松崎記念病院の近くだが交差点の地名表示等はない。この数百メートル西には松崎があったが、ここも同名交差点からその西のバス停にかけてが駅跡と推測できる。
J 03年1月
駅の西隣にある松崎橋(K参照)は大正12年架橋となっている。大刀洗橋同様、当初より軌道併用を考慮して建設されたと思われるが、現在は拡幅されたようで片側のみに当時の欄干が残る。
続いて西に進むと短区間の間に学校前上岩田と続くが、それぞれが「松崎高校前」「上岩田」バス停に変ったと思われる。

宝満川は川の右岸堤防上に駅があったはず。確認はとれなかったが、この堤防は当時に比べて少しかさ上げされたようだ。
続く大板井は現在の甘鉄大板井駅交差点の西に駅があった。

上小郡では朝倉軌道線同様、西鉄と平面交差していたが、駅跡、交差跡とも当時の痕跡は何一つ発見できない。中央軌道の駅は交差の西側、西鉄の小郡駅は南にあった。
K 03年1月
国道500号線をさらに西に進むと九州自動車道の下を通りぬけ、国道3号線およびJR鹿児島線と交差する。中央軌道線はこの3号線と500号線の国道同士の交差点東寄り付近から南にはずれ、大きな左カーブの専用軌道(L参照)で終点上田代を目指す。

専用軌道部は路盤がそのまま残っているが、これは軌道跡の一部が一旦貨物引込線として再利用されたことが幸いしている。どこまで引込線が敷設されていたかの正確なところは調べきれず、中央軌道の跡と呼べる箇所はほんの一部なのかもしれない。またこの引込線の残党と思われる1067mm軌間のレールが、JRに隣接する日清製粉工場北の踏切に少し残っている。
L 03年1月
工場とJRの間を抜けると上田代(M参照)
田代は駅前商店もほとんどない小さな町だ。地理的な理由から国鉄への接続駅としてここが選択されたが、軌道側は駅構内まで乗入れておらず、乗換えには多少歩く必要があり、乗客は不便を強いられていたはずだ。
駅名もJRの田代に対し上田代と付けられているのも、この距離によるものか。


一部に専用軌道が存在するためかすかな希望を持って挑んだが、駅跡などはすべて旧版地形図から推測するしかすべがなく、残念ながら期待した成果は得られなかった。もっとも訪問前の準備不足もかなりの痛手となったことは間違いない。
M 03年1月

 最新の情報

2010年8月1日
遺構が無いと思われていた旧中央軌道跡ですが、それらしき橋台が今でも確認できるようです。
ご記帳処に貴重な情報をお寄せ頂いた「おっちー」さんに感謝し、お礼申上げます。「おっちー」さんのブログからご覧下さい。


 参考資料


 参考地形図

1/50000  吉井 [S2要修]    甘木 [M44修正]  
1/25000  二日市 [S13測図]  甘木 [T15測図]  田主丸 [T15測図]  鳥栖 [T15測図]  吉井 [該当無]

 
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最終更新日2014-10/14  無断転載禁止 Copyright (C) 2003 pyoco3 All Rights Reserved.