塩原電車を訪ねて
廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:栃木県那須塩原市  区間:西那須野〜塩原口14.6km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気→電気

かつての西那須野駅は、ターミナルとして三路線の鉄道や軌道が接続していた。その一つが塩原電車で、塩原温泉への行楽客輸送を大きな目的の一つとしていた。しかし温泉地といえば山沿いの険しい場所が多く、当線もその地形に阻まれ、目的地のはるか手前迄しか線路を延ばすことができなかった。これが原因となったのか最後まで収支は厳しく、不況とバスの攻勢によりあっさり終焉を迎えてしまった。

略史

明治 45(1912) - 7/ 10  塩原軌道  開業
大正 10(1921) - 9/ 23  塩原電車に改称
昭和 7(1932) - 1/ 19     休止
11(1936) - 1/ 14     廃止

路線図

路線変遷図




廃線跡現況

A
17年09月
起点の西那須野(写真A)は東北本線駅前に設けられていた。車庫や転車台等を備え、大きな構内を必要としたはずだが、当時の俯瞰図を見ると駅前広場を間借りしているようにも見える。現在は新幹線の開業に伴う整備が進み、正確な位置関係の把握は難しい。
B
24年05月
駅を出た列車はすぐに左折し、県道317号線の北端を併用軌道として進む。現在、道路は二車線に拡幅され、当時の面影はどこにもない。
国道4号線との交差後は県道から市道に変わり、三島(写真B)烏森公園(写真C)と道路上に続く。両駅は地形図に記載がなく、 前後駅からの距離計測によりおおよその位置を推定した。
C
24年05月
ただし、参照した下記参考資料1、同2、那須野ヶ原の鉄道100年史、以上3点の資料全てで数値が異なるというカオス状態のため、どうしても誤差は大きくならざるを得ない。
D
24年05月
その後、沿線の学習塾を過ぎたあたりで新旧路線が分離する。開業時の旧線は道路上から左に外れ、初代三島神社前(写真D)へと至る。地形図に描かれた最初の駅となるが、この一画は既に住宅等が建ち並び、正確なルートの特定を難しくしている。
E
17年09月
市道上をまっすぐ進む新線側は、やがて小さく左に曲がる。ここに置かれていたのが二代目三島神社前(写真E)で、道路新設に伴う付替と考えられる。
駅の先で旧線と合流し、両者同一ルートに戻る。
F
24年05月
参考資料1には、次の稲荷山(写真F)付近から製函工場への引込み線が認可されたと記されるが、地形図に記載はなく、また工場の場所も判然とせず、その存在は謎のままだ。
同駅から再び地形図上の駅記号が消え、赤田(写真G)御嶽山道(写真H)の各駅も現地で駅設置を示す客観的要素を見出せず、誤差の大きい距離計測の範囲から大雑把に絞り込んでみた。ただ正確さで言えば、当たるも八卦、当たらぬも八卦といったレベルに近い。

G
24年05月
H
24年05月

I
24年05月
北西に進む道路は途中から国道400号線へと変わり、東北道をくぐってやや西に向きを振ると、右前方に牧場が広がる。明治期に開設された先進的な施設で、入口に設けられた千本松(写真I)は同牧場への便宜を図ったとも考えられる。
J
23年09月
昭和2年の地形図には1km程先に次の駅(写真J)が描かれる。しかし駅名は付されず、参照した資料にも記載はない。初代金沢道の可能性もあるが、今のところは不明駅といわざるを得ない。
K
23年09月
その不明駅から1km弱離れた金沢道(写真K)。こちらは地形図に記載がなく、距離計測により位置を判断した。さらに進むと、国道は右にカーブして関谷バイパスへつながる。ここで塩原電車は直進する旧国道側に移り、そのまま開業時の終点初代関谷(写真L)に到着する。現在のJAなすの塩原支店で、新塩原への延伸時に移転した二代目(写真M)は、道を挟んだ対面に設けられた。

L
17年09月
M
22年09月

N
19年10月
この先は山岳地帯の大きな高低差に挑むべく道路上から外れ、専用軌道で南側を迂回する。一旦北西に向かう路線は民家や空き地内を抜け、さらに左急カーブで関谷川を越える。右岸は雑草に覆われ遺構の確認はできないものの、左岸では橋台跡(写真N)の石積が姿を見せている。
O
18年09月
川を越えた後は藪地に路盤を隠されるが、カーブ終了地点まで進むと、築堤らしき盛土と共に小さな暗渠跡(写真O)を認める。かなり崩れかけているものの、なんとか水の流れは確保されている。
P
18年09月
ここからは山肌に沿って当時の路盤(写真P)が続き、その上には植林された樹木が育っている。しかし痩せた木が目立ち、素人目に見ても間伐が必要かと心配してしまう。植林地の一画を越えると路面は徐々に荒れ始め、二度目の藪地に行く手を阻まれる。
Q
17年09月
藪の先は再び植林された路盤が現れ、続いて作業道のような荒れた道に変わる。さらに進むと分譲別荘地の塩原リッチランドに到達し、路面状態は改善される。未舗装ながら域内の通路(写真Q)として利用されているようだ。
ただ道路脇に所有者を示す表示はあるものの、大半の区画は荒れ放題で、ごく一部に建つ別荘も利用されている気配はない。まさにバブル崩落を象徴するような景観を呈している。
R
17年09月
南に進んでいた未舗装路は右急カーブで一気に反転し、その先は舗装路(写真R)へと変わる。この通りが分譲地のメインストリートのようだ。緩やかな上り坂を進むと、左手にリッチランドの管理棟が見えてくる。だが、ここも閉鎖されたままで、ひと気はない。
S
18年09月
道路はそのまま急勾配で国道400号線に駆け上がるが、鉄道側は管理棟の裏を抜け、再び植林された路盤が姿を見せる。一部には路面むき出しの区間(写真S)も混在する。位置的には国道の南脇となるが、両者の高度にはかなりの差があるため、大きく仰ぎ見ながらの並走となる。
T
18年09月
木立の間を進むと、すぐ入勝川(写真T)にぶつかる。川岸に大きな石が転がるが、橋台との関連を調べる術がないのは残念なところ。川のやや先で、またもや行く手に藪地が立ちはばかる。しかしその距離は短く、すぐに当時の築堤へとつながる。ここは原形を保ったままの盛土に直接植林され、路面上や左右の法面から大木が伸びるといった、珍しい光景を見せてくれる。
U
18年09月
植林地を過ぎると路盤はけもの道状に変わり、さらにコンクリートの大きな構造物が邪魔をする。ワイヤーを支えるアンカーらしく、南側の発電所関連施設と思われる。これを越すと、入勝橋バス停が設けられたT字路(写真U)に出る。一時期、終点として新塩原が設けられていたようだが、痕跡は見つけられず、おおよその位置さえ掴めなかった。
V
17年09月
塩原電車はそのまま国道脇を併走し、やがて合流する。道路は左右へのカーブを数度繰り返したのち、やや長めの直線路に入るが、ここで鉄道側は右手に別れて専用軌道に戻る。道路側の勾配を避ける目的と考えられ、線路跡の一部は未舗装路(写真V)として残されている。
W
17年09月
鉄道と道路の高さが同一となった地点で両者は再合流し、最後に大きく屈曲すると、終点の塩原口(写真W)に到着する。駅跡は現在、回顧園地の駐車場として利用されている。目的とした塩原温泉はまだまだ遠く、駐車場入口には7q先と記された案内看板もある。乗客はここから馬車等に乗換えて先に進んだが、やはり不便であったことは否めず、バスとの競争に敗北する要因となった。
X
17年09月
本来はここで終了となるが、当路線には一つ疑問が残されている。地形図の昭和 2年版と 4年版を比較し、終点及び手前の経路が異なる点だ。後者は前述のとおりだが、前者では国道上をそのまま進み、急勾配の手前で西脇に外れた地点を塩原口(写真X)としている。実際にルート変更があったのか、あったとすれば、たかだか300m程の延長にどのような意味があったのか。この件に言及した資料は見つからず、残念ながら疑問点の解明は先送りとなってしまった。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻539号/失われた鉄道・軌道を訪ねて/塩原電車/山崎寛 著
  2. 西那須野町郷土資料館紀要/塩原電車の成立・展開・終末/金井忠夫 著/西那須野町郷土資料館

参考地形図

1/50000   塩原 [昭2鉄補/昭4修正]
1/25000   西那須野 [該当無]   関谷 [該当無]

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最終更新日2024-7/1  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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