鍋山軌道を訪ねて
廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:栃木県栃木市  区間:栃木駅前〜門沢17.1km  軌間:610mm単線  動力:人力→内燃併用

栃木県南西部には良質な石灰を産出する鉱山が数多く広がり、葛生と栃木市両方面に出荷されている。このうち栃木方面への輸送を担っていた鍋山軌道は、貨物と共に客車も運行し、自動車普及前の貴重な交通手段となっていた。しかし、道路の発達とともに主役の座をトラックに譲り、その役目を終えている。

略史

明治 33(1900) - 7/ 5  鍋山人車鉄道  開業
昭和 12(1937) - 11/ 1  鍋山軌道に改称
35(1960) - 7/ 15    廃止

路線図


廃線跡現況

A
04年08月
両毛駅跡
両毛線栃木駅前に当線の発着点両毛(写真A)が置かれていた。西側には省線への積込み施設が設けられていたようだが、近年の高架化工事に伴う駅前整備により、その痕跡は探し出せない。

ここから新線は西へ、旧線は東へと向かっていた。
B
04年08月
昭和5年に切り替わった新線側は専用軌道で敷設され、右カーブを描きながら北西に向きを変える。こちらも再整備が進み、跡地は公園や駐車場、民家等に変わっている。

東西に走る市道との交差付近から一車線の舗装路(写真B)が始まり、これが軌道跡を転用した道路と考えられる。
C
19年10月
太平駅跡
道なりに進むと道幅はさらに細くなり、普通車一台がやっと通り抜けできるほどに変わる。
その出口側は変則五差路となり、太平(写真C)が設けられていた場所となる。ただ現地で話を聞くことができず、詳細な位置は掴み切れていない。
D
04年08月
交差点を過ぎると同じ一車線のまま、幅員だけがやや広くなる(写真D)。道路と軌道が併走していた区間で、東側のみに設けられた歩道は線路敷の一部を利用したものと思われる。
E
19年10月
道路が小さく右に曲がる地点で(写真E)、軌道側はそのまま真っすぐ進み、両者は分離する。続く県道75号線との交差付近が錦着山となるが、ここは線路跡の特定すら難しい。
F
04年08月
駅を出ると食品スーパー内を通り抜け、さらに県道309号線との交差後は農地への転用も見受けられる。なお当時の旧道も一部残され、線路用地との区別には苦労する。

その農地内に設けられたバス車庫の西側境界線(写真F)が、地図上のルートに一致する。用地に沿って電柱が立ち並び、廃線跡と認定する要素のひとつを満たしていることから、確率はかなり高いと考える。
G
19年10月
この延長線上、県道32号線の手前にも細長い空き地(写真G)が続き、やはりルートに一致するものの、現地で真偽の確認を取ることはできなかった。
H
04年08月
路線はそのまま鍋山街道と呼ばれる県道(写真H)に合流する。と同時に、道路上を併用軌道で走っていた旧線と軌を一にする。
しかし道路は既に四車線に拡張され、当時の面影を探しだすことは難しい。
I
19年10月
ここで一旦両毛に戻り、旧線側に移る。

JR杤木駅前から東へと向かう路線は、二車線道路上(写真I)を進んだのち、突き当たりで左折する。
J
04年08月
さらに市街中心部を抜け、万町交差点(写真J)で再び左折する。メインストリートの東端を進むため商店の出入りに支障をきたし、また主要貨物である石灰の粉塵被害も不評を重ね、新線への切り換え要因となった。

なお栃木県鉄道史話には、交差点を直進し県道2号線までのルートを描いた地図が載せられ、用途不明な引き込み線があった可能性を示している。
K
04年08月
栃木駅跡
万町を曲がると開業時の始発駅栃木(写真K)に到着する。当初、鉱山からの積み荷は、ここで巴波川の舟運に引き継いでいた。

川の西岸に石灰鉱山の事務所、倉庫が建並び、建屋の中にもレールが延びていたそうだ。その後栃木駅前への延伸に合わせ、巴波川には専用の木橋が架けられている。
L
19年10月
西進する路線は県立栃木高校の周縁(写真L)に沿って曲り、一方通行路となった市道を北上する。
M
04年08月
しばらくは一車線で続くが、錦町五差路を過ぎると中央にセンターライン(写真M)が現れ、さらに二度目となる変則五差路で北に向きを振る。
この交差点手前に位置していたのが旧野中となる。
N
19年10月
道路はやがて県道32号線と交差し、軌道は県道上(写真N)に移る。

交差点の北西方で左側から新線が合流し、ここが新野中となるが、やはり詳細な場所の特定には至らない。おそらく他の駅同様、ホームもなく路上から直接乗り降りしていたものと思われる。
O
04年08月
鍋山街道と呼ばれる県道上に敷設された線路は東北道をくぐり、吹上町交差点付近に位置した吹上、大きな右カーブ途中の千塚を過ぎたのち、旧道(写真O)と共に左に分岐する。
P
04年08月
道はそのまま国道293号線に突き当たるが、軌道側は手前で左折し永野川を越える。国道橋の下流に残された橋台(写真P)を、そのルートから鍋山軌道の遺構と判断した。

ただしコンクリート構造のため、明治期に架橋された木橋として若干の違和感が残る。これについては、当初橋台も木製だったため架け替え時に丈夫なコンクリート製へと変更した、あるいは川の氾濫によって初期の煉瓦積橋台が崩落した、等の推論で一応の説明はつく。
Q
19年10月
川を渡り、右急カーブで向きを北西に変えると、尻内交差点(写真Q)から旧鍋山街道上を進むことになる。交差点の東には尻内が置かれていた。

街道は、梅沢新町バス停付近と梅沢郵便局付近で、道路脇に多少の余地が広がる。どちらかが梅沢と考えるが、やはり現地で情報を得ることはできなかった。
R
04年08月
下川原駅跡
資料により鍋山とも表記される次の下川原は、栗野方面との分かれ道にあたる三差路(写真R)付近に位置し、明治期の時刻表によると旅客扱いは当駅までとなっている。

大正14年の地形図では併用軌道のまま交差点を左折したように描かれているが、昭和27年版では一旦道路上から外れ、専用軌道で北側を大回りしている。動力化に伴って、ルート変更された可能性も考えられる。
その専用部にあたる理髪店で、親族が軌道に関係していたような話も聞いた。
S
04年08月
集落を抜けると県道202号線に合流し、やがて出流川を渡る。既に石灰岩の切出し場に近づきつつあり、眼前には削られた山肌が迫る(写真S)

この先、沿線の民家は消え、道路も勾配とカーブが険しくなる。
T
04年08月
地形図によると軌道の終点は吉沢石灰工業の入り口付近(写真T)となっているが、やや手前にある岡田石灰付近を門沢とする資料もある。結果的に駅位置の把握は不可能だったが、林立する各事業所への引き込み線が無数に延びていたことは想像に難くない。

参考資料

  1. 栃木の人車鉄道/栃木県立文書館
  2. 目で見る栃木市史 /栃木市

参考地形図

1/50000   栃木 [T14鉄補/S27応修]
1/25000   栃木 [S8鉄補]   下野大柿 [該当無]   仙波 [該当無]

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最終更新日2020-5/27 
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