地区:茨城県鉾田市 区間:鉾田~大貫/17.4km 軌間:762mm/単線 動力:内燃
旧鹿島郡を縦断すべく、地元有志で始動した鹿島軌道。しかし資金不足により目的とした大洗、鉾田の各市街地に乗入れることができず、中途半端な状態で開業を迎えた。これが営業成績に直接響き、開業後一度も赤字から脱出することはかなわず、わずか数年の運行で廃止を余儀なくされた。
路線図
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略史
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大正 |
13(1924) - |
5/ |
20 |
鹿島軌道 |
開業 |
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15(1926) - |
6/ |
18 |
〃 |
全通 |
昭和 |
5(1930) - |
6/ |
20 |
〃 |
廃止 |
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廃線跡現況
市街地から1km以上離れた、段丘上の桜本地区に設けられた鉾田(写真A)。資金不足により、段丘崖の勾配を緩和する迂回路建設の目途が立たなかったようだ。しかしこれが集客、集荷に大きく響き、最後まで足を引っ張り続けた。
当時の写真から、駅舎跡に相当すると思われる消防施設の前後に、本社屋を含めた大きな構内が広がっていたと推察される。現在も地番が継続して使用されているため、場所の特定は比較的容易だ。
駅を出るとすぐ旧県道上に乗り入れ、併用軌道として北東に向かう。その路盤は未成となった鉾田馬車鉄道の跡地を利用したものと言われている。
しばらくして県道2号線(写真B)に合流するが、当時から大きく拡幅された道路上に当時の面影は残されていない。
全中間駅の中で唯一地形図に記載のない安房(写真C)。起点からの距離を計測し、左手の諏訪神社を越えた先のT字交差点付近かと推測する。但し、何一つ確証は得られていない。
北東に進んでいた路線は、左カーブで若干西寄りに向きを変える。と、ほんの一瞬だが県道上をはずれ、専用軌道となる区間がある。
地形図ではここに樅山(写真D)が記されるものの、下記参考資料2ではやや先のガソリンスタンド付近とされ、距離計測の4㎞地点ともそれぞれが異なる。
駅の先で併用軌道に戻った直後、国道51号線と交差し今度はその旧道側(写真E)へと進路を移す。
道なりに北上し、小さな集落の北寄りに設けられていたのが樅山宿(写真F)となる。地形図では諏訪郵便局の前後を示しているが、参考資料2にはJA樅山支所付近と記され、現地でその真偽を判断する情報は得られなかった。
旧道はやがて国道に接近し、そのまま吸収(写真G)されてしまう。
やや間隔をあけ、冷水入口交差点の北側に勝下(写真H)が位置した。ここも地形図からの読み取りだけが頼りとなる。
駅の北方で旧道(写真I)が右に分離し、当然鹿島軌道もそちらにルートを移す。ただすぐに旧道からも別れ、点在する民家及び農地の中へ飛び込んでしまう。以南の併用軌道と以北の専用軌道との境界点でもある。
転用したとされる鉾田馬車鉄道の線路敷が、同所付近で途切れることによる移行と推測される。
さらに歯科医院の中を抜けると、子生(写真J)に達する。路線の中間点に設けられた列車交換駅でもある。旭村の歴史-通史編には旧子生小学校(現物流会社等)正門前の細道が進入路だったとの記述があることから、跡地は農地内に取り込まれてしまったと考えられる。
地形図の位置と若干のずれはあるが、誤差の範疇と捉えることもできる。
そのまま国道東奥の農地内を並進しつつ、二つ目の信号交差点を越えた先でS字カーブを描き、国道西奥に位置を移す。但し線路跡の特定は相変わらず不可能と言わざるを得ない。
十文字地区に置かれていたのが荒地(写真K)となるが、こちらも正確な位置は判然としない。
北上を続ける路線上に一棟のビニールハウス(写真L)が現れ、現地でこの前後が軌道跡との教示を得た。全線を通じて唯一無二、地元で得られたたった一つの情報でもある。なお当時はまだ農地は少なく、周囲はすべて林だったとの話も聞いた。
この先も人家等を避け、右へ左へとふらふら進路を変えながら進む様子は、1947年の空中写真からある程度読み取ることができる。
次の上釜(写真M)は鹿島神社の西方となるが、距離的には沢尻集落に近く、駅名としてやや違和感が残る。加えれば、一区画北の稲荷集落に駅の設置がないのも大きな疑問点となる。
図で見る朝日村の歴史には「子生の次は弁天、十文字、沢尻、上釜と通り、市ノ沢からは旧道沿いに成田に向かう」と書かれている。それぞれを駅名と捉えれば、軌道としてごく自然な駅間距離に落ち着くが、真偽の確認は今のところ取れていない。
その市ノ沢集落に差し掛かると、軌道跡は原子力機構の敷地内に入り込むため、調査は断念せざるを得ない。ただ南門を過ぎたあたりでほんの一瞬だけ構内から飛び出し、国道の東側(写真N)に回り込む。
その後は再び機構内に戻り、北端から抜け出るまでは敷地内をふらふら北上し、脱出直後の一画に成田(写真O)が置かれていた。
駅の先からは国道51号線夏海バイパス(写真P)に転用され、車にとっては四車線の快適な道路となっている。しかし大幅な拡幅により軌道跡は完全に消し去られ、探索の意気込みは一気にしぼむ。
途中に設けられた夏海(写真Q)も、集落からのアクセス路を確認できなかったため、正確な位置は掴めていない。
その国道が左に緩くカーブする地点(写真R)で鹿島軌道は右に分離し、旧道の東側(写真S)を併走しはじめる。
町営前原住宅、東京工業大学研修所を続けて抜けたのち、終点の大貫(写真T)に到着する。しかし周辺の聞き込みでも情報は集まらず、軌道のあったことすら周知されていない。やむなく、当時から変わらぬ地番を頼りに所在地の確認をするにとどまった。
なお当初の目的地は水浜線の大貫駅とされていたが、資金不足が影響したのか、ここからさらに線路が北上することはなかった。
参考資料
- 鉄道ピクトリアル通巻455号/鹿島鉄道沿革史/谷口良忠 著
- 鉾田の文化36号/鹿島軌道について/飛田寿 著/鉾田市郷土文化研究会
参考地形図
1/50000 |
磯浜 |
[S3鉄補] |
鉾田 |
[S3鉄補] |
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1/25000 |
*磯浜 |
[S3鉄補] |
徳宿 |
[該当無] |
鉾田 |
[該当無] |
制作公開日2022-8/17 *路線図は国土地理院地図に追記して作成*
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