日立電鉄を訪ねて
廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:茨城県日立市  区間:常北太田~鮎川/18.1km  軌間:1067mm/単線  動力:電気

常磐線の大甕と水郡線の常陸太田を結ぶ目的で開業した城北電気鉄道。日立製作所の経営参加により日立への延伸を目指したが、鮎川までの開通にとどまった。終点は何とも中途半端な場所だが、関連工場への利便性は確実に向上した。仮に日立市内へ乗入れたとしても、常磐線平行区間での集客は、大変な努力が必要であったと考えられる。

略史

昭和 3(1928) - 12/ 27  城北電気鉄道 開業
19(1944) - 8/ 13  日立電鉄に改称
22(1947) - 9/ 1    全通
平成 17(2005) - 4/ 1     廃止

路線図


廃線跡現況

JR常陸太田とは旧国道を隔て、東側に位置していた常北太田(写真A)。既にその跡地は整理され、ドラッグストア等に利用されている。駅を出て国道293号線を越えたのちは、未利用の空き地(写真B)として南につながっていくが、所によってはかなり雑草の生い茂る箇所もある。

A
22年5月
B
22年5月

C
22年5月
しばらくして左カーブで南東に向きを変え、国道349号線の下をくぐる。ここからの路盤は舗装路(写真C)に転換され、一部に用地の境界杭を見つけることができる。国道側の跨線橋には日立電鉄線の銘板が埋め込まれている。
D
22年5月
ただ道路転用は短く、次の里川で終了してしまう。河川に痕跡はないが、手前の跨道橋は片側だけ橋台(写真D)が残されている。川を渡ると放置された築堤が現れ、最初の市道交差脇に水路用の橋台(写真E)を認める。

築堤上はそのまま未舗装路として利用され、下り勾配の終了地点が小沢(写真F)となる。隣接していた農業倉庫が二棟残されるものの、駅跡は空き地として放置されたままだ。

E
22年5月
F
22年5月

G
22年5月
駅東方の市道踏切(写真G)はレールが未撤去状態で、その先に続く路盤上には雑草の中に車の轍も刻まれている。農地の中を進むため、レールの残されたあぜ道用踏切(写真H)や、農業用水路に架かる小橋梁(写真I・J)の痕跡も連続する。

茂宮川には橋台らしきコンクリート塊(写真K)を両岸に認めるが、雑草に覆われて全体を視認できないため断定は難しい。

H
22年5月
I
22年5月

J
22年5月
K
22年5月

L
22年5月
川を渡り路面に再び車の轍が見え始めると、常陸岡田(写真L)に着く。空き地として放置された駅跡にはバス停が設けられるものの、大甕、日立へ向かう路線の立ち寄りはなく、常陸太田コミュニティーバスの終点を担うのみだ。バス停名も岡田町樋口とされる。
M
22年5月
駅東方の踏切跡(写真M)には、やはりレールが取り残され、その後も引き続き農地の中を進むことから、水路用の橋梁跡(写真N)やあぜ道との踏切跡(写真O)が定期的に顔を出す。

N
22年5月
O
22年5月

P
22年5月
その後平行する国道293号線をアンダーパス(写真P)し南から北へ位置を変えると、線路跡の道路転用(写真Q)が始まる。ただ地元の生活道といった様相で交通量は比較的少ない。

道なりに進むと大きな左カーブへとつらなり、東に向きを変える。カーブ途中に置かれていたのが小目(写真R)で、路線廃止以前に閉鎖された駅のため痕跡はなく、その位置は地形図による大雑把な把握にとどまる。

Q
22年5月
R
22年9月

S
22年5月
さらに道路が若干広がった先に一時停止を伴う十字路が現れる。この東側に位置したのが川中子(写真S)で、今は農協施設に利用される。
T
22年5月
転用道路は駅を出た直後、国道293号線に突き当たって終了し、再び放置された路盤が農地の中に続いていく。国道東脇の弁天川に橋梁痕は認められないが、左岸堤防上には踏切跡(写真T)が残されている。
U
22年5月
ここからは踏切跡(写真U・W・X・Z)や水路痕(写真V・Y)が連続して現れ、両者が隣接する箇所もある。但し生い茂る雑草に邪魔され、路盤上を直接進むことは難しい。
中には四スパンの立派な橋梁(写真AA)も含まれ、現在は細い水路が一本だけとなっているが、当初は幅広い河道を持っていたことをうかがわせる。

V
22年5月
W
22年5月

X
22年5月
Y
22年5月

Z
22年5月
AA
22年5月

AB
22年5月
近くには日立市の所有を示す立て看板が転がり、さらに踏切跡(写真AB)と続く。また用地の境界杭も所々で顔を出す。

その先でくぐる常磐道(写真AC)の側道に踏切跡、隣接する水路には橋台(写真AD)を見つけることができ、高速道側も跨線箇所のみ桁の形状が異なっている。なお東側の用水は雑草に覆いつくされ、痕跡の有無を調べることは難しい。

AC
22年5月
AD
22年5月

AE
22年5月
高速を過ぎると、旧国道6号線を越えるべく築堤(写真AE)で高度を上げはじめる。今も分断された一部が残されれるものの、鉄道の面影は感じ取れない。
国道と交差する陸橋はそのまま東側へと連続し、民家裏に高架橋がそびえていた。盛土による建設が一般的な状況だが、国道沿線でもあるため用地確保に問題が生じたのかもしれない。
AF
22年5月
ずらりと並んでいたコンクリート橋脚は現在全て撤去され、ごく普通の住宅地に変貌している。鉄道の存在がまるで嘘のような雰囲気だ。

橋を越え、地上に降りた地点が大橋(写真AF)となる。ちょうど市道への合流点でもあり、構内の半分は道路に吸収され、駅舎跡には新しい住宅も建つ。
AG
22年5月
ここからの市道は線路跡を転用してつくられ、二車線の走りやすい構造となっている。

次の茂宮(写真AG)は北側の広い歩道付近が駅跡に相当する。
AH
22年5月
道路化されるとルートの確認が容易になる一方、鉄道の痕跡はほぼ壊滅状態となる。一本松通との交差点東に置かれていた南高野(写真AH)も同様で、駅跡を示すものは何ひとつ発見できない。
AI
22年5月
その後、常磐線をくぐる手前から道路転用をはずれ、消防施設の裏手を通る。しかし路盤は既に藪地化し、アンダーパス部(写真AI)とそれに続くトンネル(写真AJ)はコンクリートで固められてしまった。

常磐線の東側に出ると、今度は歩行者専用道(写真AK)への転用が始まる。

AJ
22年5月
AK
22年5月

AL
22年5月
ただこれは距離が短く、左カーブで北に向きを変えた途端、空地にぶつかり終了してしまう。
ここが久慈浜(写真AL)の構内南端に相当し、車庫等を備えた広い敷地の大半は市立南部図書館へと変わる。建物の横にはバス停と共に日立電鉄の歩みをしるしたコーナーが設置され、その歴史を後世に伝えている。なおホームは駐車場付近から北に向けて配置されていた。

駅の先からはバス専用道(写真AM)に転換され、BRTの路線名がつく。かなり広めの歩道も併設されるが、なぜか自転車の通行は禁止されている。県道との立体交差箇所(写真AN)では鉄道時代の陸橋がそのまま再利用されたため、しわ寄せがきたのは歩道の幅員だ。

AM
22年5月
AN
22年5月

AO
22年9月
この先、吹上橋バス停(写真AO)付近から開業当初の旧路線が左に分離する。西側の小道との間を進んだのち次の臨海工場西バス停でBRT線と交差し、常磐線の東隣を併走しはじめる。
AP
22年9月
そのまま北上すると、JR駅の南東部に乗り入れていた初代大甕(写真AP)に到着する。駅跡は一時期常磐線の貨物側線として利用されていたようだが、今は駐輪及び駐車場に変わっている。
しかし鮎川への延伸時には駅前を横切ることが難しかったためか、工事開始と共にいわゆる駅裏に線路を移設した。
AQ
22年5月
新線側は駅の南方で常磐線を越え、西隣を併走したのち二代目大甕(写真AQ)に至るルートで、現在のバス専用道とほぼ一致する。跡地は西口広場として近代的に整備され、何もなかった当時とは隔世の感がある。
AR
22年5月
ここから北は二車線の市道と一体化(写真AR)して進み、やがて常磐線の東側に位置を戻す。この跨線橋を含め、バス専用道は鉄道路盤をそのまま利用した箇所や、大きく手直しされた箇所が混在する。
AS
22年5月
水木(写真AS)には同名バス停が設けられるが、その位置は市道を挟んだ南側へ移動されている。駅を出た後もしばらくは二車線道路と共に進み、左手に大沼小学校が近づくとその手前で両者は分離(写真AT)する。廃線跡を転用したバス専用道側には、相変わらず自転車乗り入れ禁止とされた歩道が併設される。

大沼(写真AU)は道路幅員が不自然に広がるため駅跡と判別し易い。同名バス停も置かれ、当時の駅前広場はタクシー置き場として利用されている。

AT
22年5月
AU
22年5月

AV
22年5月
続く市道との交差(写真AV)は跨線橋が鉄道時代のままで、歩道の幅がかなり犠牲となっている。また経時劣化によるものか、鋼材で補強された橋台はなんとも痛々しい。
市道をくぐり抜けると、やがて道路転用は終了(写真AW)し路線バスは一般道に降りる。この手前に河原子交流センターバス停が設けられるが、鉄道時代の河原子(写真AX)はその先で越える県道61号線直近の築堤上に位置していた。

AW
22年5月
AX
22年5月

AY
22年5月
駅前後は盛土もかなり削れらてしまったが、県道の北側は手つかずで、跨線橋の橋台(写真AY)は原形を保ち、すぐ北側にはコンクリートアーチ橋(写真AZ)を見つけることもできる。
築堤上は未舗装路(写真BA)となり、一部で駐車場や水路に利用される箇所もある。

AZ
22年5月
BA
22年5月

BB
22年5月
さらに河原子小学校を通り過ぎて国道245号線に近づくが、その手前の踏切(写真BB)には今もレールが残され、隣接する用水路にも雑草の中から両岸の橋台(写真BC)が姿を見せている。
そのまま国道の西側を併走しはじめると、今度は歩道を兼務するかのような散策路(写真BD)に変わり、用地境界杭も各所で散見されるようになる。

BC
22年5月
BD
22年5月

国道と共に描く緩やかなカーブ途中にも、日立関連会社への進入路と思われる踏切痕(写真BE)が残される。そのカーブ終了地点設けられていた桜川(写真BF)は、国道側に設けられたバス停名が多賀病院入口に変わっている。

BE
22年5月
BF
22年5月

BG
22年5月
この先、線路跡への立入を防止する柵が目立ち始めると路面(写真BG)も若干荒れ気味となり、1m程の雑草が生い茂る区間も出てくる。ただ柵が無い箇所もあり、かなり緩やかな立入制限のようだ。一部には日立市所有地との看板も添えられている。
BH
22年5月
やがて左手に常磐線が近づき、しばらく併走すると終点の鮎川(写真BH)に到着する。ガソリンスタンド裏手のホーム跡から北方の留置線にかけて、構内の大半は空き地のままで残されている。

あらためて周りを見回すとJR側に接続駅があるわけでもなく、有名な観光名所があるわけでもない。どのような経緯でここを終着駅としたのか、大きな疑問が渦巻いたままだ。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻128号/日立電鉄/益井茂夫 著・・・私鉄車両めぐり

参考地形図

1/50000   日立   ひたちなか
1/25000   常陸太田 [H4修正]   日立久慈 [H5修正]   日立南部

 82/04年当時の各駅

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制作公開日2022-10/8  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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