武州鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関東 減速進行

 地区:埼玉県さいたま市  区間:蓮田~神根/17.3km  軌間:1067mm/単線  動力:蒸気・内燃

現在のさいたま市見沼区と川口市を結ぶ目的で始動した中央鉄道。計画は幾度も変更され、北端は行田市からさらに熊谷市へ、南は蕨市及び赤羽へと移り、社名も途中から武州鉄道に改称された。しかし建設は遅々として進まず、実際に開業したのが中途半端な蓮田~神根間にとどまったことや、東武野田線の開通も業績に影響し、結果的に短命な鉄道として終焉を迎えている。

路線図

略史



大正 13(1924) - 10/ 19  武州鉄道 開業
昭和 11(1936) - 12/ 31    全通
13(1938) - 9/ 2     廃止

廃線跡現況

東北本線との接続駅蓮田(写真A)は、現在の東口第一駐輪場あたりに設けられていた。駅を出るとすぐ左にカーブを描き、中央公民館裏手の駐車場(写真B)を抜ける。同所片隅に線路跡を示す案内板が立てられ、その歴史を後世に伝えている。文面には蓮田市指定文化財との記述も見られる。

A
22年6月
B
22年6月

C
22年6月
カーブ途中で市道と交差し、その先の密集地内に線路跡を利用した住宅(写真C)が建ち並ぶ。この様子は最新の航空写真で容易に確認できるが、地上で探し出すことはかなり骨が折れる。
D
22年6月
一画を抜けたのちは区画整理された住宅街に変わり、老人ホーム駐車場までの間、経路を特定する地割は消える。
駐車場の東方に位置した馬込(写真D)は材木店が目印となる。
E
22年6月
駅を出た直後に旧国道122号線と交差し、その先は空き地として放置される。ただその距離は短く、すぐに中古車販売店の駐車場に入り込んでしまう。これを抜けると再度舗装路(写真E)が現れ、東北道に分断されながらも私立の河合幼稚園に突き当たるまで続く。
F
22年6月
さらに一本南側の市道踏切直近に河合(写真F)が置かれていたと、地元で教示を受けた。道路転用こそ途切れたが、路盤上に立つ倉庫、跡地に沿った斜めの土地境界線等が頻繁に表れ、ルートの把握は比較的容易だ。
G
22年6月
東に進んだ先の平林公民館(写真G)も同様で、駐車場から建物まですべてが武州鉄道の跡地を活用している。しかしその後は一転し、一車線の生活道北側を並走する区間は農地等に取り込まれる箇所が多くなり、場所の特定が難しくなる。
H
22年6月
岩槻の市街地に近づくと路盤上に建つ住宅(写真H)が一気に増えはじめ、航空写真からの判別は容易だが、地上での確認にはあまり役立たない。駐車場(写真I)はその中の強い味方でもある。細い路地を入り込む必要もなく、目の前に線路跡を示してくれるありがたい存在だ。
続く岩槻北口(写真J)は住宅街に細かく分断されてしまい、正確な位置の確認は不可能と言わざるを得ない。

I
22年6月
J
22年6月

K
22年6月
その後はスーパーマーケット内を抜け、続いて東武野田線をアンダーパス(写真K)する。ただし同線の複線化に伴って橋梁は一新され、既に痕跡はない。
L
22年6月
東武の南方は住宅街路の西側を進み、そのまま浄安寺の門前を横切る。道の傍らに「武州鉄道の小径」の案内表示(写真L)が掲げられるが、街路と鉄道跡が重なる箇所はごく一部に限られる。
M
22年6月
寺を過ぎると今度は道の東側に移り、その跡地にはやはり住宅が建ち並ぶ。さらに私立幼稚園を抜け、県道2号線を横切った先が岩槻本通(写真M)となり、駅跡に建つ民家の外塀に案内表示を見つけることができる。
N
22年6月
駅南側の市街地内にも、一部に当時の地割が認められる。元々がウナギの寝床状の細長い区画のため、その利用には各々工夫が凝らされている。
一画を抜けた先に待ち構えるのが岩槻中学校で、太田小学校が市道を挟んだ南側に隣接する。本社を併設した主要駅の岩槻(写真N)は両校にまたがる大きな敷地を有し、今は小学校側に駅跡の表示板が取り付けられている。
O
22年6月
その後も空中写真ではルートに沿った建物(写真O)を相当数認めるが、地上で全数把握することはやはり至難の業と言わざるを得ない。
国道16号線との交差後に始まる道路への転用(写真P)は距離が短く、すぐ美容室に突き当たって終了してしまう。
この南方、国史跡に指定された真福寺貝塚付近も宅地転用(写真Q)が目立つ。しかし史跡周辺の公園整備が計画され、一部に立ち退きが迫っているとも聞いた。

P
22年6月
Q
22年6月

R
22年6月
さらに南下を続ける路線は、しばらくして県道324号線と併走を始める。跡地は西側沿道に並ぶ各企業用地に分割され、道路拡幅には利用されなかったようだ。
途中の真福寺(写真R)はゴルフ練習場の南端付近に置かれ、庚申塔が目印と言われているが正確な位置は掴み切れていない。
S
22年6月
駅の南方で県道から別れたのちは、住宅、工場、農地、藪地等が入替わり現れ、やがて目白大学の正門前道路につながる。旧版地形図ではこの北側付近に浮谷(写真S)が描かれるものの、既に痕跡は何も残らず、駅のあった雰囲気すら感じ取ることが出来ない。
T
22年6月
大学の裏手からは小さな藪地や未舗装路(写真T)、さらに跡地に建つ鉄工所内(写真U)を抜ける。
やや飛んで、老人福祉センター槻寿園前に少しだけ道路転用された線路用地(写真V)が姿を見せ、その後は自動車解体業者の敷地としてつながっていく。

U
22年6月
V
22年6月

そのまま南下を続けると、ゲートで区切られた中古車置き場(写真W)に突き当たる。ここからはオークション車両の駐車場となり、大量に並べられた中古車は県道214号線を越え、道路南側の笹久保(写真X)へと続いていく。その駅跡東に建つ施設がオークション会場となる。

AG
22年6月
AH
22年6月

Y
22年6月
駅の先で初めて河川らしい河川といえる綾瀬川を越えるが、残念ながら橋梁の痕跡は認められない。
対岸は既に区画整理が完了し、当時の経路を直接たどれないまま国道122号線に合流(写真Y)する。
Z
22年6月
国道(写真Z)は武州鉄道線の転用であることは間違いないが、東北道と一体化され60m程の幅員を有することから、どのあたりを走っていたのかまでは把握できない。跡地がたまたま道路用地に含まれてしまった、といった状況のようにも見える。
AA
22年6月
その道路に完全に飲み込まれてしまった武州野田。残された駅前道路(写真AA)が唯一の手掛かりとなるのみだ。
AB
22年6月
同じく武州大門(写真AB)も東側からのアクセス路が目印となる。終点を担っていた時期もあるため構内は広く、昭和20年代の空中写真からもその区画を読み取ることが可能だ。
ここから先の延伸部は短命に終わったため路線を描いた地図がなく、ルート確認は昭和20-30年代の空中写真に頼らざるを得ない。
AC
22年6月
次の下大門(写真AC)は、武蔵野線北側を走る小道が昭和4年の地形図にも描かれることから、これを接続道路と捉えて踏切南側を駅跡と判断した。空中写真にそれらしき区画を確認でき、駅間距離も大きな誤差は生じない。
さらに川口市道50号線との交差点、北川口陸橋の南側付近には行衛の元となった字名が現存する。ただこの地区は全面的な区画整理が実施され、今ではおおよその場所すら把握が難しい。
AD
22年6月
終点神根(写真AD)も国道にかき消されている。駅へのアクセスを担う県道103号線に接していたと思われるが、北側なのか南側なのかがはっきりしない。延伸を視野に入れた仮の終点でもあり大きな構内を有していたとは思えず、空中写真を頼りに神根交番の北西一帯と判断したものの、残念ながら確証も物証も得られていない。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻139号/武州鉄道/吉田明雄 著 ・・・失われた鉄道・軌道を訪ねて
  2. 郷土はとがや9号/武州鉄道跡を歩く/伊藤明世 著/鳩ケ谷郷土史会

参考地形図

1/50000   大宮 [*S4鉄補]
1/25000   岩槻 [該当無]   浦和 [*S4鉄補]

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制作公開日2022-10/20  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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