野上電気鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関西 減速進行

 地区:和歌山県海南市  区間:日方~登山口  軌間:1067mm/単線  動力:電気

官設鉄道や、南海の和歌山軌道線も海南に達していない大正前期。地域の経済発展を期し、地元資本で小私鉄が開業した。沿線の特産品を港まで運ぶことが目的で、これは近くの有田鉄道などと共通する。まだまだ海運が大動脈となっていた時代で、その後徐々に国鉄へシフトし、さらに自動車へと移行していく。しかしこの変化が業績を悪化させ、晩年の経営は青息吐息のまま終焉を迎えてしまった。

略史

大正 5(1916) - 2/ 4  野上軽便鉄道 開業
昭和 3(1928) - 9/ 24  野上電気鉄道に改称
平成 6(1994) - 4/ 1      廃止

路線図


廃線跡現況

A
20年8月
日方駅跡
当時の日方町市街南東に位置した、野上電気鉄道の日方(写真A)。後から開通した紀勢本線の駅がやや南に離れたため、別途乗換専用の連絡口を設けていた。ただその距離は短く、同じ構内に二つのホームが連続するような印象を与えていた。
跡地はともに整地され、20年時点では空き地が目立つものの、一部に民家、店舗等も建てられつつある。
B
20年8月
駅を出た直後に左急カーブで東に向きを変え、線路跡は細い歩行者専用道(写真B)に転用され始める。しばらくすると舗装面がやや広がり、サイクリングロードの雰囲気が出てくる。
C
20年8月
春日前(写真C)は公園となり、休憩所も兼ねているようだ。駅名標を模した看板が立てられ、「健康ロードの駅春日前広場」と書かれている。
東に向かう路線はやがて阪和道をくぐるが、その手前に小さな橋梁(写真D)が架かる。橋台はコンクリートで補強されているが、内側は当時の石積構造がそのまま生かされている。次の幡川(写真E)も公園となり、やはり休憩所を兼ねる。

D
20年8月
E
20年8月

F
20年8月
駅を出てしばらくすると歩行者専用道は終了し、新興の住宅地に入り込む。空き地や農地も多く完全な市街地ではないが、大幅に区画を変えられているため、線路跡をトレースすることは不可能となっている。
その一画を抜け日方川の左岸に出た地点で、再びルート上に遊歩道(写真F)が重なる。
G
20年8月
道なりに進み、大きな左カーブの終了地点に置かれていたのが重根(写真G)。ここも公園兼休憩所に姿を変え、重根広場と名付けられている。
H
20年8月
駅の東を流れる椎原川。歩行者橋のコンクリート桁から下をのぞけば、当時の石積橋台(写真H)が再利用されていることを確認できる。
さらに左カーブで北に向きを変え、当時無かった国道370号線と交差し、続いて旧道に相当する国道424号線を横切る。
I
20年8月
国道を越え、右カーブで再び進行方向を東に戻すと、紀伊阪井(写真I)に到着する。道が左右に別れ、真ん中に緑地帯が設けられている。駅構内をそのまま利用したようだ。
J
20年8月
色付の舗装が施された道路上を進むと、しばらくして亀ノ川(写真J)を渡る。当時の石積橋台がそのまま歩道橋として再用されている。
K
20年8月
国道424号線の北側を、やや離れて走っていた路線は、東に向かうにつれてその距離を縮め、やがて合流し(写真K)併走を始める。歩行者専用道となった今は、北側の歩道を兼務することになる。
L
20年8月
直後に置かれていたのが沖野々(写真L)。鉄道の路盤は道路と若干の段差があったが、今は埋め立てられて同一レベルになっている。
駅の東で渡る貴志川に痕跡は無く、その先は国道370号線に転用される。両側に歩道を完備した二車線の快適な道路だが、鉄道の遺構を探し出すことはほぼ不可能となっている。
M
20年8月
途中の野上中(写真M)は道路脇に空き地が広がり、南東に建つ倉庫群は今も当時のままの姿を見せている。
N
20年8月
同じく道路上となった北山(写真N)も道路脇に駅跡の余地が残り、北側からの駅前通りも健在だ。
当時の写真と見比べると、北側車線付近が線路跡に相当し、道路は南側のみに拡幅されたと認められる。近年は両側に拡幅する例が多いが、片側のみの場合は旧来の建物が残される可能性が高く、駅跡等の正確な把握に有利な条件となる。
O
21年1月
信号交差点の西側に位置した八幡馬場(写真O)。当時の面影は三階建ビルにかき消されるが、西側の民家は今も変わらず、場所の特定を手助けしてくれる。
P
20年8月
続く紀伊野上(写真P)も、交換駅としての広い構内は二車線道路に飲み込まれ、駅前広場の一部が北脇に残されているに過ぎない。
Q
20年8月
その後、貴志川の支流となる柴目川を渡る。道木新橋の名が付く道路橋の下に、鉄道時代の橋脚(写真Q)が一基隠され、両者に若干位置のずれが見られることから、道路建設時に曲線の手直しが行われたと考えられる。
R
20年8月
橋に続くような形で設けられていたのが動木(写真R)。延長された県道10号線により構内は分断されたが、北側に隣接していた二階建民家が今も健在で、駅跡の目印となっている。
S
20年8月
南東へと向きを変えた道路上を進むと、次の竜光寺(写真S)に着く。ここも隣接する工場が当時の駅跡を教えてくれる。
T
21年1月
国道370号線は相変わらず快調に延びていくが、鉄道跡としての発見は皆無で、ただ淡々と距離を重ねるしか術がない。
下佐々(写真T)には下佐々南バス停が設けらるが、位置は若干南にずらされている。
U
20年8月
終点登山口(写真U)は、最後の左カーブが終了し線路が東を向いた地点に設置されていた。野上電気鉄道なきあとは、大十バスの本社兼営業所として活用され、鉄道路線を引き継ぐ後継ルートも運行している。
国道の北側歩道から東行車線にかけてが線路跡に相当し、道路に面したホーム跡上にはバス車庫が建設されている。

 

-未成区間-

V
20年8月
美里への延伸を目指して工事を進めたものの、途中で計画を断念し、放置されてしまった区間。正確なルートを把握できなかったため、転用されたとされる国道370号線沿いのみを調べた。
まずは野上の町はずれ、貴志川に架かる小川橋の東に橋脚(写真V)を認める。一基は左岸側に仁王立ちし、残りは河川内に倒壊した姿を晒している。
W
20年8月
その貴志川の上流、国道に架かる新白枝1号橋の下に橋脚(写真W)が残されている。高さが若干低いようで、道路橋工事の際に上部が削られたのではないかと推測する。
V
20年8月
大きく蛇行する貴志川は再び国道を横切り、橋には新白枝2号橋の名称が付く。この南側にも鉄道用の橋台(写真V)と橋脚を見つけることができる。ここは道路上からの視認も可能だ。
他にも数箇所、遺構の情報があったものの、既に国道に取り込まれてしまったのか、残念ながら発見には至らなかった。

 

-保存車両-

下佐々のくすのき公園(写真Y)と住宅街(写真Z)に車両が保存されている。後者は個人の所有らしい。

Y
20年8月
Z
20年8月

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻322号/野上電気鉄道/大阪工業大学鉄道研究会

参考地形図

1/50000   海南   動木
1/25000   海南 [H1修正]   動木 [S62修正]

 93年当時の各駅

  No300に記帳いただきました。
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最終更新日2021-1/17  *路線図は国土地理院電子地図に追記して作成* 
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