江若鉄道を訪ねて

廃止鉄道ノート関西  減速進行

 地区:滋賀県大津市 区間:膳所〜浜大津(2.2km)浜大津〜近江今津(51km) 軌間:1067mm全線単線 動力:蒸気→内燃気

琵琶湖に県域を分断される滋賀県。東海道線が建設された湖東地方に対し、湖の西側は官設鉄道の恩恵にあずかれなかったため、地元有志により鉄道が計画された。社名からもわかるように本来は近江(滋賀県)と若狭(福井県)を結ぶ予定で免許を受けたが、費用対効果の薄い福井県側は工事に着手されず、近江今津までの開業にとどまった。当初より国による買収を視野に入れていたと思われ、湖西線の計画が浮上するとその用地を譲って廃止された。


 略史
大正 10 (1921) - 3/ 15 江若鉄道 開業
昭和 6 (1931) - 1/ 1     本線 全通
22 (1947) - 1/ 25     貨物線 延伸
44 (1969) - 10/ 30    当日を以て廃止

 路線図

* 地図上にマウスポインターを置くと江若鉄道を表示します


 廃線跡現況
起点と言うにはやや語弊があるが、東海道本線の膳所(A参照)からこの鉄道のレールは始まり、駅を出るとすぐ京阪電気鉄道石山坂本線の南行線に乗り入れていた。標準軌の京阪に対し江若側は狭軌のため三線軌条が採用された。

大津市街の密集地を進むと琵琶湖岸に達し、湖岸道路に並行して北西方向に向かう。現在は埋め立てが進み右手にも市街地が広がるが、当時は文字通りの湖岸を走り抜けていた。
A
15年10月
B この区間は初期の東海道線に相当し、本線のルート変更後に貨物支線へと転じた路線を両社で借用していた。江若側は貨物輸送を主目的としていたが、一時期は気動車も運行されていたようだ。

大津港に近い島ノ関西交差点西方には狭軌時代のレールが永く残されていたが(B参照)、今は標準軌に拡幅され京阪の留置線として利用されている。
93年8月
その留置線の西側が当鉄道の中心駅である浜大津(C参照)となる。やはり国鉄からの借用であった駅跡は、バスターミナルも同居する複合ビルのスカイプラザ浜大津に変わり、一部は京阪の浜大津駅構内に取り込まれている。

駅の西、高層マンションの裏側に歩道橋が延び、これが線路跡にほぼ一致する。開業時の初代駅はこの付近に設けられていたが、隣接した京阪の旧駅と共にその痕跡は全て消えている。周辺は再開発が大きく進み、当時の雰囲気を感じとることは難しい。
C
15年10月
D 歩道橋の先は大津絵の道と名付けられた遊歩道となり、途中で第一疎水を渡る。ここに当時の橋台を利用した大津絵橋が架かる。また車両工場等を併設した三井寺下(D参照)も全て住宅等に取り込まれ、痕跡は残されていない。そのまま二車線の市道に合流し遊歩道は消滅する。さらに市道を道なりに進むと滋賀の手前で湖西線に合流する。

駅北方の右カーブは両者の半径が異なり、曲線部のみ分離する。江若鉄道の跡地は農地や宅地等に変わり、それなりにルートがわかるような土地境界線が続いている。カーブ中間点で両者は一旦合流するが、この地点から側線が二本右手に分岐していた。
15年10月
側線跡は大半が宅地に取り込まれるが、東側を並行する二車線道路沿いのコンビニ横に鉄道用地に沿った路地(E参照)を発見する。その先の住宅地にも一軒だけ路盤を利用したと思われる民家が存在し、続く唐崎保育園、さらに唐崎交番を抜けていたと判断できる。
南に向きを変えた路線はそのまま国道161号線に合流し、現在の自衛隊大津駐屯地まで延びていた。

なお水耕農場への側線は国道161号線沿いの家電量販店付近が終点と思われるのみで、途中ルートの正確な把握は不可能だった。
E
15年10月
F 本線に戻り湖西線を北上すると、唐橋駅を過ぎた左カーブ地点で再び両者は分離する。江若側は一車線の舗装路となり比叡山を源流とする四ッ谷川を越えるが、道路橋の下に当時の橋台(F参照)が隠れている。

川の北で再度湖西線に合流すると、西隣に西大津バイパスが接近してくる。その途中に叡山が設けられていたが今では場所の特定すら難しい。
15年10月
日吉は比叡山坂本と駅名が変わったが、位置的にはほぼ同一場所にあたる。ただここから両者は分離するため、その向きにはややズレが生じ、江若側の路線は駅の北で二車線の舗装路に変換され北東方向に延びていく。

足洗川を渡ると一旦一車線(G参照)に幅員が減少し、両側には住宅が建ち並ぶ。すぐ二車線に戻るが、今度は郊外の路線といった雰囲気が強くなる。
道路上を北東に進み、高橋川を越えると国道161号線に近づきそのまま合流する。
G
15年10月
H 雄琴温泉は国道沿線のコンビニ付近と思われ同名のバス停も設けられているが、現地で確認を取ることは出来なかった。雄琴川を越え国道がゆるやかに左カーブを描くと鉄道跡は左に分岐し、今度は一車線道路に転換されて続いていく。

そのまま湖西線に近づくが、合流するわけでもなく両者は再び離れていく。ただ接近箇所では江若鉄道時代の築堤が姿を見せ、未舗装ながら地元の生活道(H参照)として活用され天神川まで続く。
15年10月
鉄道跡は川を越えると再び一車線の舗装路に転換され、仰木道交差点の北からは堅田の市街地に入り込むため、跡地のトレースは困難となる。

国道161号線に隣接していた堅田(I参照)は後継会社である江若交通の整備工場として利用されていたが、今はスポーツ施設が建てられている。また南側に広がっていた紡績工場への引込線も、その痕跡を探し出すことは既に不可能となっている。
I
15年10月
J 路盤はそのまま国道の西奥を併走するが、既に大規模店舗等に取り込まれ痕跡を見つけ出すことは出来ない。

その後、今堅田交差点付近から左カーブを描いて徐々に国道から離れ、湖西線に近づく。途中カーディーラーやカラオケ店の駐車場、あるいは高層マンションの敷地に当時の用地境界線が残されている。さらに湖西線合流の手前、真野川に橋台跡(J参照)を発見する。コンクリート製ではなく石積みの珍しいもので、どのような経緯で採用されたのか興味を惹かれる。
15年10月
駅の雰囲気が全て消えた真野、続いて湖西線に設けられた小野駅を過ぎると再び両者は別れ、江若鉄道跡は西側を一車線道路として延びていく。

和邇川を越えると和邇の市街地に入り、古くからの旧道然とした雰囲気に変わる。右手に市民グランドが現われるとすぐ二車線道路にぶつかり、その先の路盤跡は宅地として分譲され今では民家が建ち並ぶ。
和迩の駅跡にも新しい住宅が建設され、旧国道から続く小道がその位置を知らせるのみとなってしまった。
K
15年10月
L 北に向かう路線は駅を出たのち老人ホームを抜ける。その北方には放置された路盤(K参照)が顔をのぞかせ、続く喜撰川にも橋台(L参照)が残されている。
さらに進むと湖西線に再合流するが、しばらくは完全なトレースではなくルートは微妙にずれる。ただその確認を現地で取ることは難しい。

右にカーブを描くと両者は一致、旧国道と交差して蓬莱へと滑り込む。その位置は現駅とほぼ重なる。
15年10月
この先しばらくは路線の重なる湖西線上を北上する事となる。ただ野離子川、志賀へと駅名の変わった近江木戸、天井川としてトンネルが掘削されていた大谷川および青柳浜付近は両者が分離する区間も見受けられる。

比良で江若側は東に分岐し舗装路に転換される。道路はびわ湖レイクサイド自転車道と一体化されているが、車道は県道307号線、自転車道は県道601号線と別々の番号が振られているのはなんとも面白い。
M
15年10月
N 県道上に位置した舞子南口を過ぎると一旦湖西線に合流し近江舞子に到着する。ここは新旧で場所が異なり、江若の駅は市道を挟んだ南側に設けられていた。
駅の北で再び琵琶湖側に離れ、やはり自転車道を併設した県道(M参照)としてやや大回りなルートをとる。

県道が国道161号線にぶつかり終了すると、その先は細い生活道として真っ直ぐ延びていく。さらに左手を走る湖西線がぐっと近づいてくると北小松(N参照)に着く。構内の一部はJRの駅前広場に組み込まれ、また両側に商店の並ぶ駅前通も残されているため、当時の雰囲気を若干感じ取ることができるのは嬉しい。
15年3月
駅の北に小橋梁跡(O参照)が残され、その先には築堤(P参照)が当時のままの姿を見せている。
築堤上は舗装路とし供用され、右カーブを描きながらやや下り勾配で国道161号線に近づき、その脇に並ぶ。しばらく並走したのち、岩除神社付近で国道に吸収される。
O
15年3月
P この先は鉄道路盤が国道の拡幅に利用され、将来の四車線化も想定されているようだ。途中には旧道との踏切も存在したが、その痕跡を見つけることはもはや不可能となっている。

沿線で聞き取りするも、なかなか正確な情報は集まらず、記憶がかなり薄らいできていることを実感させられた。
15年3月
白髭神社の南方で西側の歩道がややふくらみ、この右手に白髭(Q参照)の構内が広がっていた。駅前の食堂は現在も盛業中で、店内には江若現役時の写真が飾られている。
神社の正面、琵琶湖内に鳥居が建立され写真撮影の名所だったが、この鳥居は当時から沖合に10m程移動しているとの話を地元で聞いた。

神社を通り過ぎると国道は四車線に広がり北にカーブする。ここに旧道との踏切が設置され、鉄道は湖側から山側へと位置を変えていた。
Q
15年3月
R ほぼ真北に向いた地点が白髭浜となり、右手には海水浴場が広がる。

駅の北で旧道が西に別れるが、江若鉄道はさらに西に切れ込み国道上から離脱する。一部は民家に取り込まれるが、日吉神社からはバイコロジー自転車道(R参照)として転用され、湖西線に近づき吸収される。
15年3月

高島町はJRでは近江高島と駅名変更され、その駅前広場が当時の駅跡に相当する。当然のごとく今となってはその痕跡を一切発見出来ない。駅の北で右カーブを描くが両者のルートは微妙に異なり、湖西線の西隣に橋台跡を数ヶ所(S・T参照)と築堤の一部を確認出来る。

S T
15年3月 15年3月

曲線が終了すると両者は再び同一線上に重なり、そのまま小田川を越える。通常なら撤去されるであろう当時の橋台(U参照)が奇跡的に難を逃れ、湖西線橋梁の下に隠されている。ただ、ここから先は残念ながらJR線の築堤の下に全てが埋没している。

続く水尾は石材店に取り込まれ正確な場所の特定は難しい。また安曇川は現駅のやや北に位置し、江若交通管理の駐車場が当時の駅前広場と聞いた。
当線最長の安曇川橋梁も既に近づくことが困難で、遺構の有無の確認すら叶わなかった。
U
15年3月
V 新旭はタクシーの営業所付近で、南側には細い駅前道路が残されている。現駅は[しんあさひ]の読みだが、江若時代の初期には[しんぎ]と呼ばれていた。

北に向かう湖西線はゆるやかな左曲線を描くが、江若側が大回りするため両者は一旦離れる。二車線の市道に沿って高島市役所付近まで進むと、道路脇に当時の路盤(V参照)が一部姿を見せる。
その後、JR新旭駅前を通り抜けて湖西線に合流する。
15年10月
饗庭は西から道路がつながり、また農協倉庫や付随する空き地が駅跡の雰囲気を漂われている。

国道161号線と交差する手前で湖西線は右に曲がるが江若側はまっすぐ進み、国道の東脇には北饗庭が設置されていた。ここから県道558号線にぶつかるまでは舗装路に転換され、続いて資材置き場を抜け今川を渡る。両岸には当時の橋台が残され、改修された上で湖西線橋梁の高さ制限バーの基礎(W参照)に利用される。
W
15年10月
X その先で一旦湖西線に合流するが、一本北の波布谷川の橋台(X参照)も同様の活用方法で残されている。続く右カーブ地点で今度は左に離れ、空き地や農地となって続いていく。長く離合を繰り返した両者も、ここが最後の分岐点なる。

市道との交差後は当時の築堤(Y参照)が姿を現わし、未舗装ながらも車の通行は可能となっている。築堤の北端では天川が東西に横切り、この両岸に橋台(Z参照)を見つけることができる。
川を越えると今津の市街地に入り、県道291号線の東脇を併走した路線跡は商店や住宅、団地等に利用されその痕跡は消える。
15年10月

Y Z
15年10月 15年10月

機関庫や貨物ホームを併設し大きな面積を持つ終点近江今津の跡地は、JA施設や駐車場、道路等に変わり、片隅にはユニークな形状の駅舎(AA参照)が現在まで残されている。駅構内は辻川通りまで達し、こちらは駐車場等に利用される。

なお当初の目的地であった福井県とは駅前を発着する国鉄バスを介して連絡し、江若鉄道廃止後も湖西線駅前に拠点を移して運行を続けている。
AA
15年10月

 参考資料
 参考地形図
1/50000  北小松 [S40補測]  彦根西部  京都東北部 [S35資修]
1/25000  今津 [S32資修]  勝野 [S33資修]  北小松 [該当無]  草津 [S42改測]
 比良山 [該当無]  堅田 [S42改測]  京都東北部 [S29資修]

 
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