出石鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関西 減速進行

 地区:兵庫県豊岡市  区間:江原〜出石11.2km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気・内燃

但馬の小京都として、あるいは特産の皿そばで観光客を集める出石。古くからの歴史ある町だが山陰本線建設のルートから外れ、町勢の減退を心配した地元有志により江原までの軽便鉄道を開通させた。第二次世界大戦中に資材供出のため廃止となり戦後復活運動も展開されたが、残念ながら運転を再開することは叶わなかった。なお休止から廃止までの期間が長いのは、手続き上の不備によるものといわれている。

略史

昭和 4(1929)- 7/ 21  出石鉄道  開業
19(1944)- 5/ 1    休止
45(1970)- 7/ 20    廃止

路線図



廃線跡現況

A 省線駅に隣接して設けられた江原(写真A)は駐車場等に利用され、当時の雰囲気を感じるものは何も残されていない。

ここから北東に向けて走り出した列車は、しばらく山陰本線と併走していた。
15年3月
その線路跡に建ち並ぶ商店群の中に、小さな橋台跡(写真B)を見つけることが出来る。
続く八代踏切から徐々に山陰本線を離れ、右カーブを描きつつ蓼川第二保育園に飛び込む。
B
15年3月
C
15年3月
ここで東に向きを変えた路線は、住宅や駐車場あるいは短い路地(写真C)に利用され、一部空き地のままの箇所も見受けられる。鉄道用地に沿った土地境界線が散見される区間で、細かく分断された割にルートをたどることは比較的容易だ。
D
15年3月
さらに民家裏を進むと、国道482号線にぶつかる。ちょうど鶴岡新道バス停の南西にあたる。ここからは鉄道用地を転用した一車線の生活道(写真D)が始る。ただ距離は短く、鉄道側は両脇に広がる畳工場を抜けた先の十字路で道路から左に分離し、緩やかなカーブを描く。
E
15年3月
まっすぐ進む道路側は稲縫神社脇をかすめるように続き、これが本線の休止以降も運行されていた砂利採取線(写真E)に相当すると考えられる。
F
23年3月
しかし実際の採取現場(写真F)は、堤防のかさ上げを含む河川改修により大きく変貌し、当時の痕跡、面影は一切認められない。

本線側は民家や空地、現在は空き家となった牛舎(写真G)等に細かく分断されてはいるが、当時の築堤も残され、跡地を確認することはまだまだ可能。一旦区画整理された農地を通った後、鶴岡区公民館をかすめるが、その向かい側にも境界線(写真H)の一部が姿を現わしている。

G
15年3月
H
15年3月

I 北東に向いた路線が民家を抜けた先に、今度は路盤を支えた石垣擁壁(写真I)を見つけることが出来る。付近はその後埋立てられたり、換地されている箇所も多いと聞いた。
15年3月
そのまままっすぐ進むと円山川にぶつかる。右岸には橋台(写真J)が残り、川底にも橋脚跡らしき構造物を認める。並行する下流側の道路橋が取壊し中で、接近して確認することが出来ないのはやや残念。

川を越えると一車線の生活道に転換されて東に進むが、当地は冒険家植村直己の生誕地で、ふるさと公園への案内板が目立つ。
生活道はその先で二車線に広がり、車にとって快適な道路に変る。
J
15年3月
K 上ノ郷(写真K)は頼光寺の前に位置し、その跡地には屋根付の車庫がポツリと建っている。上記ふるさと公園もこの寺の裏山に設けられている。

ここからは再び一車線の農道に近い生活道に変化するものの、少し先の十字路でやや北に向きを変えると、区画整理された農地に飲み込まれてしまう。
15年3月
その後、築堤で少しずつ高度を上げていたと思われる出石鉄道は、やがて国道482号線に接近する。ここに橋台(写真L)が残り、その東側は雑木等の茂る藪地や未舗装路となって、国道に隣接しながら続いていく。
用水の取水口付近には築堤も目にするが、当時の鉄道用なのか、その判断は難しい。

国道がS字カーブを描いたのち、両者そろって市谷川を越える。ここにも橋台(写真M)がその姿を両岸にとどめている。少し先にはバス停があり、市谷集落へ延びる道路もつながっているが、中筋(写真N)はこの道の東側に設置され、現在の民家付近であることを地図が示している。
L
15年3月

M
15年3月
N
15年3月

O
15年3月
駅付近から国道と離れ始め、住宅地を抜けると山裾に沿って緩やかな右カーブを描く。
善教寺の裏手まで進むと、山腹の中段にそれとわかる段差が残り、動物避けの柵が連続して設けられているため、遠目からもはっきりとルートを確認することが出来る。ただし足を踏み入れることは、かなり困難な状況。更に牛舎の前を抜けると、ほんの一部が未舗装の作業道(写真O)として残るが、その先は再び荒れ地に戻る。
P
15年3月
左にカーブし始めると高圧ガス工場の下、続いて農地内を抜けるが痕跡は見つからない。工場の東隣に小道があり、当時は鉄道の築堤をトンネルでくぐっていたと聞いた。道端にやや場違いなコンクリート塊(写真P)が転がるものの、関連性は確認がとれなかった。
Q 農地の先は林の中に飛込む。ただ既に雑木が生茂り、中に踏み込むことは出来ずトレースは難しい。少し遠くから眺めると、一部の樹木がやや低くなった箇所があり、ここが線路跡に相当する。

藪の中で徐々に高度を上げ、その後山裾に再び姿を現す。やはり動物避けの柵が建並び、遠くからも視認出来る。路盤上(写真Q)は草刈等も実施され、作業道としてそのまま使えそうだが、車の走行跡はない。柵に入口がないため中に入り込めないのは残念。
15年3月
R
15年3月
左手の小さな溜池を過ぎると再び国道482号線(写真R)に近づきサミット付近で合流、ここからは国道の拡幅に利用されつつ東に向かっての下り勾配となる。
S
16年7月
やや南に向きを振る地点に片間バス停が設けられ、ここを過ぎると出石鉄道は再び国道から南に分離する。道路脇のやや上方には鉄道の路盤跡が半分程顔を出している。分岐点には民家が建つが、その先は一部が小さな農地(写真S)として利用されている。
T
16年7月
更に建設資材置き場を抜けると今度は藪地に変わり、一旦ルートのトレースは不能となる。しかし道路側の下り勾配終了地点で南に入ると、ゴミ集積場の裏手に再び当時の築堤(写真T)を認めることが出来る。
付近に橋梁跡が残されている可能性があるとの話も聞いたが、残念ながら発見には至らなかった。
U
15年3月
東に向かう国道が大谷地区でほんの少し南に進路を変えると、鉄道跡は踏切を介して道路の南から北にその位置を移す。その先は小道に転換されたのち民家にぶつかるが、ここに小坂村(写真U)のホーム跡が顔を覗かせている。
現状からは、かなりの埋め立てが実施されたことを見て取れる。
その東は程度の良い一車線の生活道として東につながり、のどかな田園風景の一本道といった風情を示している。地元でこの道が鉄道みちと呼ばれていることは確認したが、それ以上の情報は得られなかった。

島口(写真V)は小坂小学校の北付近と思われるが、ホーム一本だけの小さな停留所で正確な場所の特定は難しい。
V
15年3月
W ここからは未舗装路(写真W)となり、しばらく進んだ後に再び舗装路に変り、右に大きくカーブを描き方向を変える。
15年3月
カーブ終了時点の道路脇にコンクリート構造物(写真X)があり、当地で複数の人から鳥居のホーム跡だと教えてもらった。

しかし側面に傾斜が付く等、その形状には疑問点も多く、地元での教示を否定し、道路拡幅時に造られた土留擁壁であるとの結論を出した。
X
15年3月
Y
15年3月
駅のすぐ南にも小さな橋梁跡が残っていたらしいが、現在は確認出来ない。

ほぼ真南に向いた路線は国道482号線の旧道部、続いて新道と交差し、出石川左岸の山腹に沿って南下する(写真Y)
Z
15年3月
その出石川に合流する菅川を渡ると長砂橋西交差点へとつながり、ここからの鉄道用地は国道432号線(写真Z)として二車線の舗装路に拡幅転用されている。
道路は一旦左曲線を描いたのち右にカーブを始めるが、出石鉄道はここで国道を東に離れ、既に区画整理が終了し獣害除けのネットが張巡らされた農地に吸い込まれていく。
AA 市街地に近づくと農地の中に一車線の生活道(写真AA)として姿を見せはじめ、その後市道に突き当たり終了する。ここから先は既に民家が建ち並び、鉄道跡のトレースは困難となる。
15年3月
市街地西端に位置する終点の出石(写真AB)は、車庫や機関区も備え広い敷地を有していたはずだが、今はすべて民家に変り、鉄道を連想出来るものは何ひとつ残されていない。

駅の東には空き地が広がり、境界のブロック塀西側に線路が敷設されていたこと、南側が駅の端だったこと、かなり北に留置線の車止が長期間残っていたこと、地元では軽便と呼んでいたこと、等々の話を現地で聞くことができた。
AB
15年3月

参考資料


参考地形図

1/50000   出石 [S7修正]
1/25000   出石 [該当無]   江原 [該当無]

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最終更新日2023-4/11  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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