北丹鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関西 減速進行

 地区:京都府福知山市  区間:福知山〜河守12.4km  軌間:1067mm単線  動力:蒸気→内燃

現福知山線となる阪鶴鉄道は由良川沿いに舞鶴までの延伸を計画したが、由良川の舟運が発達していたことや鉄道による公害を心配した住民から反対運動が起こり、別ルートで敷設されてしまった。やがて時代の進捗と共に鉄道への要求が高まり、福知山と日本海の由良を結ぶ北丹鉄道が地元で計画され、とりあえず河守まで開通した。ただ以北への延伸工事は、接続予定だった宮津線のルートが変更されたことや資金難等を理由に中止されてしまった。結果的には中途半端な路線となり、頻繁に発生する由良川の水害も加わって経営難が続き、国鉄の計画を引き継いだ第三セクターの宮福鉄道に後を託さざるを得なかった。

路線図

略史



大正 12(1923) - 9/ 22  北丹鉄道  開業
昭和 46(1971) - 3/ 1    休止
49(1974) - 2/ 28    廃止
63(1988) - 7/ 16  宮福鉄道 開業

廃線跡現況

A
15年3月
山陰本線に隣接していた始発駅の福知山(写真A)。廃止後は後継路線でもある宮福鉄道に活用されていたが、その後の連続立体化事業によって南に移転したため、今は駐車場に変わっている。北側に建つJR福知山支社ビルが目印となる。

なお宮福鉄道は翌年北近畿タンゴ鉄道に名称変更し、更に最近は京都丹後鉄道へと運行会社が変更されている。
B
15年3月
西向きに出発した列車は右カーブで徐々に国鉄から離れるが、ここに当時の橋台(写真B)が残されている。
その先は市街地に入りビル等に痕跡を消されるが、一部に跡地に沿った土地境界線を見つけることもできる。
C
15年3月
ほぼ北に向いた地点で府道523号線と交差し、ここからの一車線道路(写真C)が鉄道路線に合致する。ただし緩やかな右カーブを描く道路は数百メートルで途切れ、再び民家や駐車場に取込まれる。

市街地の中で幼稚園を抜けた先に西駅公園が広がる。ここが福知山西(写真D)で、本社跡を示す石碑があり蒸気機関車も保存されている。車庫をも併設した広い構内は、公園の前後に大きく広がっていたようだ。駅の北は再び生活道(写真E)に転換され、大きな左曲線を描く。

D
15年3月
E
15年3月

F
15年3月
しかしカーブ途中で一旦道路転用は終了し、北西に向いた地点で今度は二車線道路(写真F)に吸収される。
道はやがて由良川に突当り、堤防に沿って若干左に向きを変えるが、鉄道側はそのまま堤防内に吸収される。
G
15年3月
由良川は氾濫による水害を繰り返したため、堤防の嵩上げを含む河川改修が継続して実施されてきた。その新堤防の脇から、線路の敷設されていた旧堤防部(写真G)が顔を出す箇所も多く、大まかではあるが当時のルートを教えてくれる。

途中で渡る支流の和久川は当時まだ開削されておらず、旧河道に相当する荒河排水場側の橋梁痕は、河川敷の雑草に邪魔されて有無の確認が取れない。
H
15年3月
その後、由良川から離れ二車線の市道に合流する。ここからの市道は廃線跡を拡幅転用したもので、車にとっては快適な道路となっている。

市道を道なりに進むと次の下川(写真H)に到着する。地形図では同名バス停付近を示すが、痕跡は見つからない
I
15年3月
続く上天津(写真I)は天津小学校の手前で、こちらも駅跡を示すものは見つけられないが、西から延びる取り付け道路は今も健在だ。

駅の先で市道は左に曲がるが鉄道側はまっすぐ進み、閉鎖されたコンビニの裏手を抜けて宮津街道と呼ばれる国道175号線に並び、右手には再び由良川が接近してくる。
J 国道の数メートル下方には鉄道路盤(写真J)が放置され、雑木が茂った箇所や草刈り等それなりに手入れされた箇所、あるいは家庭菜園に利用される箇所等が入り交じっている。
15年3月
K
15年3月
途中の小川には、ガーダーを含めた橋梁跡(写真K)を見つけることが出来る。
一部、国道に取り込まれたと認められる場所もあり、何か痕跡でもないかと道路上から覗くと、なんと鹿が数匹走り去っていった。鹿も驚いただろうが、こちらも十分驚かされた。
L
15年3月
登り勾配がやがて下りに変わり緩やかな左カーブを描くと、右手に当時の築堤(写真L)が姿を現わし、そのままグランドにつながる。ただし23年時点で国道拡幅工事が実施され、一部の築堤は既に道路用地に組み込まれてしまった。
M
23年3月
同時に一車線の舗装路(写真M)が国道から分岐して右手に向うが、これは由良川河川敷の砂利採取線の跡とも考えられる。

本線側はその先農地内に入り一旦痕跡は消える。下天津(写真N)も地図により信号交差点の東付近と判断するのみ。駅の北で瘤木川を渡るが、ここの橋梁(写真O)が当時のままで残り、国道からも視認出来る。

N
23年3月
O
15年3月

P そのまま資材置場を抜けると、放置された路盤は国道に接近し始める。

下天津交差点の北にも橋台跡(写真P)があり、こちらは嵩上げされ導水管用として再利用されている。
15年3月
Q
15年3月
国道が右カーブで北東に向きを変えると、北丹鉄道は国道を斜めに横断しその位置を西側に変え、そのまま二つの連続したトンネルへとつながっていく。
これは鉄道時代からのもので、南側の日藤第一(写真Q)は盤上げされ国道とレベルを合わせ、北側の日藤第二(写真R)は原型のままで、共に内側を補強して供用されている。
R
15年3月
その先は国道の西側を併走していたが、道路の改良により鉄道が走っていた雰囲気を感じ取ることが出来ないまま、再び国道を横断し東側に移る。ほぼ同時に宮福線をくぐり、右に別れる旧道の東脇へと続いていく。
S
15年3月
公庄の集落に入ると市の駐車場脇に再び橋梁跡(写真S)を発見。こちらも桁が残され、一目で鉄道用と判別できる。しかし残念ながら、河川整備により23年時点で既に撤去されている。
T
15年3月
そのまま河西体育館に突き当ると、そこが公庄[グジョウ](写真T)となる。国道に面した日用雑貨店の斜め前に駅舎があり、東側の側線で貨物の積込みも行われていた。

駅を出て北東に向かう路線は国道175号線と宮福線の間を抜け、一部が国道の拡幅に、一部は宮福線の用地に提供されているが、その詳細な区分けは難しい。
U
15年3月
続く蓼原(写真U)には地元の野菜などを販売する小さな小屋が建てられ、その先宮福線の直下には橋台跡(写真V)を見つけることも出来る。
国道がやや北に進路を振ると宮福線は右に離れるが、北丹鉄道はそのまま道路脇(写真W)を併走する。当時の路盤は利用されることもなく東隣に空地として続いている。

V
15年3月
W
15年3月

X 空地が国道から徐々に離れると終点の河守[コウモリ](写真X)に到着する。終端駅らしい大きな構内は、大半がおおえ駅前商店街に生まれ変わり、電気店や喫茶店が一直線に立ち並ぶ店舗の中央部にレールが敷かれていたこと、ホームは西側にあったこと、北はJAの手前、南はタクシー会社の事務所付近迄が構内だったこと、府道493号線付近に駅舎があったこと、駅前広場もあり盆踊り等も開催されていたこと、駐車場付近に河守鉱山の鉱石置場があったこと、等々を地元で教えてもらった。

宮津までの第二期計画との関連なのか、路盤そのものは更に数百メートル続いていたが、埋立てを含む造成によりその痕跡は完全に消されている。
15年3月

−保存車両−

西駅公園に保存される機関車(写真Y) Y
15年3月

参考資料

  1. RM LIBRARY 14/北丹鉄道/山本武男 著/ネコ・パブリッシング
  2. 鉄道ピクトリアル通巻232号/北丹鉄道/京都大学鉄道研究会 ・・・私鉄車両めぐり

参考地形図

1/50000   大江山 [S24応修]   福知山
1/25000   三岳山 *[S47改測]   河守 [S22資修]   福知山西部 [S46改測]

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最終更新日2023-4/10  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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