赤穂鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関西 減速進行

 地区:兵庫県赤穂市  区間:赤穂〜有年(12.7km)  軌間:762mm単線  動力:蒸気・内燃

この地で真っ先に思い浮ぶのが、あまりにも有名な忠臣蔵での赤穂浪士。他にも赤穂用水と呼ばれる上水道が江戸時代から広く張巡らされ、日本三大旧上水道として知られ、その設備は今でも農業用として地元で大切に利用されている。そんな歴史からなのか、当地の水道料金は全国で最安値にランクされている。また、古くから製塩業が盛んで、その搬出を主な目的として地元資本で当線が敷設されたが、赤穂線の開通によって使命を終えた。

路線図

略史



大正 10(1921) - 4/ 14  赤穂鉄道  開業
昭和 26(1951) - 12/ 12   〃 廃止

廃線跡現況

A 瀬戸内に面する小都市、赤穂市。こぢんまりとした市街地に赤穂鉄道の始発駅播州赤穂(A参照)が設けられていた。跡地はバスの営業所となり、駅前広場は市の無料駐車場として解放されている。本社屋、車庫等も併設された構内はかなり広く、機関区は北側の教会付近にあった。

駅構内を抜けると用水路が東側に接近し、路盤は一旦これに沿ったのち、その先で並行する二車線の市道に吸収される。鉄道開通後の昭和3年、線路の東隣に東洋紡の工場が進出したが、現在は大規模ショッピングセンターに生れ変わっている。
15年3月
北東に進む市道はこの鉄道の廃止を決定づけた赤穂線に突き当り、その北側で菓子工場脇を大きな右カーブで抜けると再び二車線の市道に合流する。この先の道路は廃線跡を拡幅転用して建設されたもの。

新長田橋を越えたあたりで市道から左にはずれ加里屋川を渡る。道路橋の春日橋付近を斜めに抜けていたが、当時の川幅は半分程だったと聞いた。その先、理容店付近を通り小さな用水を渡ると、その位置を山裾に移す。この用水が赤穂用水の導水路に相当する。
ここからは未舗装の桜並木(B参照)として続き、隣に並行して舗装路が延びるため通過車両も少なく、快適な散策路として提供されている。
B
15年3月
C 桜並木には無粋な電柱が建ち並ぶが、これも鉄道跡を示す一つの要因になる。また当時は蒸気機関車の火の粉で頻繁に山火事が起きたの話も耳にした。

左に緩くカーブを描いたのち、しばらく進むと資材置場に遮られ一旦道路は途切れる。墓地付近で導水路を越えて東側に移動し、小山集落内では線路跡が生活道に利用される。長楽寺の前が砂子(C参照)で、道幅がやや広がりそれらしい雰囲気もある。駅跡を示す標柱があるが、なぜか50m程離れているのはご愛嬌か。
15年3月
なおこの鉄道は全駅跡にその位置を示す標柱が立てられ、ルートをたどる案内役をつかさどっている。

駅を過ぎると再び導水路の西側に位置を移し、桜並木の未舗装路として北東方向に進んでいく。左手に三宝荒神社が近づくと、四度目となる導水路との交差、さらに続いて東隣に平行する加里屋川を渡り、そのまま市道に合流する。ここに橋梁の跡(D参照)が残されている。
この先の市道はやはり鉄道用地を拡幅転用したもので、走り良い二車線道路として引続き北東に向う。
D
15年3月
E 道なりに進むと坂越、更に大きく左カーブで向きを変えた後は目坂(E参照)と順に駅が設置され、それぞれに標柱も立てられているが、既に痕跡もなく鉄道の匂いは完全に消えている。道路は快適な造りだが右手の千種川堤防上を県道が並行するため交通量は少ない。

山陽道との交差付近は落石のため通行止となるが、復旧を急いでいる様子はうかがえない。付近は勾配がかなりきつく、標柱にはしばじば立往生したとの説明も記されている。
15年3月
落石箇所の北で県道90号線と合流し、赤穂用水の切山トンネル上を過ぎると根木(F参照)に到着する。高尾トンネルのちょうど真ん前に当り、列車交換設備を備え側線も持った広い構内の余地が道路脇に広がっている。当時は線路沿いに桜並木があったようだが、今はそれもきれいに伐採されている。

ただ参考とした地形図の記載場所とややずれていることや、駅へのアクセスがどうなっていたのか等の漠然とした疑問も残っている。
F
15年3月
G ここからは県道が457号線と番号を変え、緩やかに左に曲ると古くは熊見川と呼ばれた千種川を渡る(G参照)。路線廃止直後はその橋梁を道路橋として改築利用していたが、現在は上流側に専用の道路橋を新たに架橋している。
当時の鉄道橋は小規模な堰に合わせて建設され、現在もその中に橋脚の基礎部分が顔をのぞかせている。なおトラスとプレートガーダーの組合わせであったため、橋脚跡の形にも二種類ある。また右岸には橋台状の石積みが垣間見えるが、近づく事が出来ず確認は取れない。
15年3月
川を越えると新幹線をアンダーパスし、すぐに左に曲って県道525号線へ入る。この地域は農作物の被害が多いのか道路両側には動物避けの金属柵が張り巡らされ、何か閉じこめられたような異様な雰囲気に包まれる。
その道路途中に周世(H参照)が設けられ、集落へ向う道路もあるが、こちらにも扉が設置され物々しさに輪を掛けている。
H
15年3月
I 廃線跡を転換利用した県道はそのまま千種川の左岸に沿って北西方向に続き、大半は山肌に沿うが一部には築堤も設けられている。
川の対岸に二車線の県道90号線が走るため交通量は少なく、また道幅は狭いが両脇の樹木によって適度な木陰も配置され、サイクリングロードには最適な環境だ。

この県道が山側に小さくふくらんだ場所が真殿(I参照)で、付近に集落もなく、何ら集客施設があるわけでもない。なんのために設けられたのか不思議だが、その答は「蒸気機関車に給水したり、石炭を積み込むための駅である」と案内標柱に記されている。河川側に当時の跡地が広がり、石垣の残骸はあるものの設備の痕跡は発見出来ない。
15年3月
富原(J参照)は集落の上方に位置し、人が通れる程度の急坂道が二本程あるのみで広い駅前道路はない。ここも動物避けの金属柵で囲まれ、現在は道路から集落に降りることは出来ない。
駅を過ぎると道幅がやや広がると同時に右カーブで北東に進路を取り、千種川に接近する。

続いて矢野川が合流するが、赤穂鉄道はこの河川の左岸に移る。船着場跡の標柱や流路変更の跡を左手に眺めつつ谷口の集落に入ると、鉄道の痕跡も消えその跡地を正確にトレースすることは困難となる。
J
15年3月
K 集落を抜けると東に向きを変えて国道2号線に接近し、しばらくはその南側を併走した後これを横断し、山陽本線に接近していく。当時の路線はその後に出来た国道の新ルートや宅地等に取込まれ、何も発見は出来ない。地元で尋ねても、納得のいく答は戻ってこなかった。

国鉄との接続駅有年(K参照)は駅前広場の西側に跡地が広がり、建物の土台等の一部が顔をのぞかせている。なお当時は駅前に日通の営業所があり、塩の輸送を担当していたとの話を聞いた。
15年3月

参考資料

  1. RM LIBRARY55/赤穂鉄道の発掘/安保彰夫 著/ネコ・パブリッシング
  2. 兵庫懐かしの鉄道/神戸新聞総合出版センター

参考地形図

1/50000   播州赤穂
1/25000   相生 [T14測図]   播州赤穂 [T14測図]

 No81に記帳いただきました。
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最終更新日2016-6/15 
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