頸城鉄道自動車を訪ねて
廃止鉄道ノート北陸・甲信越 減速進行

 地区:新潟県上越市  区間:新黒井〜浦川原(15km)  軌間:762mm全線単線  動力:蒸気内燃

地元有力者により国鉄駅と沿線集落を結ぶ目的で開業した頸城鉄道。軽便鉄道としては比較的遅くまで活躍した部類に入るが、やはり自動車の進出には勝てず昭和の後半に廃止となった。廃止時には路盤の一部を北越急行に譲っている。
今は地域一帯でバス運行を主体とする会社として活躍しているが、地元では鉄道時代から続く○にKの字の社紋から「まるけー」と呼ばれ親しまれている。

略史

大正 2(1913) - 4/ 6  頸城鉄道  設立
3(1914) - 10/ 1     開業
昭和 19(1944) - 4/ 30  頸城鉄道自動車に改称
46(1971) - 5/ 1       鉄道線 廃止
6/ 1  頚城自動車に改称

路線図



廃線跡現況

A 信越本線の黒井駅は、その西側と南側に大手の工場が建ち並ぶ工業地域の一角にありながら、今では駅員無配置駅となっている。駅舎のない変則的な橋上駅は、側線を多数抱える大きな構内と比べてやや違和感が漂う。

小さな軽便鉄道の始発駅新黒井(写真A)はこの黒井駅の隣に並んでいた。南口の整備によって構内の一部は駅前広場に変ったが、貨物積換設備等の残り部分や米倉庫跡は相変らず手つかずで草ボウボウの状態だ。
83年8月
駅の北側には保倉川支流の潟川が流れガーダー橋(写真B)で越えていたが、これもすでに撤去されている。
北東に向いて出発した列車は右カーブで徐々に向きを変える。路盤は駅寄りの一部が放置されるものの、その先ですぐに2車線道路への拡幅転用がはじまる。
B
83年8月
C さらに国道8号線直江津バイパスと交差し、その後は一直線に東へと延びていく(写真C)
南を流れる保倉川沿いに集落が密集し、当然客貨を確保するには川に沿ってルートを設定するのが一般的だが、あえて人家の少ない田園地帯に路線を決めた理由はなんであったのか、なかなか興味深い。
14年7月
新たに造成された南部産業団地の工場群を左右に見ながら2キロ程進むと、道路がやや北にふくらむ箇所がある。ここが北四ツ屋(写真D)となる。
鉄道側が一直線で続いていた箇所で、道路建設時に若干屈曲した経路に変わったようだ。
D
14年7月
E 駅の東で北陸道をアンダークロスし、さらにしばらく走ると右に小さく曲り、長かった直線路が終る。この先に百間町(写真E)が設置されていた。

本社を併設した主要駅で、その本社屋、車庫(写真F)が軽便歴史資料館に生れ変わり、各種車両も展示保存されている。公開日以外は立入禁止となっていて、窓の外からのぞき込むしか手だてがないのはやや残念。
83年8月
しかし、交換設備や機関庫等も設けられていた構内の広さを利用し、新たなレールも敷かれ、定期的に走行会が開かれているのはうれしい限り。 F
83年8月
G 駅の先は再び2車線道路として利用され、やがてゆるやかなS字カーブが終ると北に直角に曲る。この手前に位置したのが鵜ノ木(写真G)
ここは線路跡と道路にややずれがあり、道路と北側の水路にはさまれた農地内に駅があった。
14年7月
道路への転用が終ると今度は当時の低い築堤(写真H)がそのままの状態で顔を出し、車の乗入れは難しいものの徒歩での探索は十分可能となっている。
雑草で覆い尽されていないのは地元でそれなりに利用されている証拠だろう。
H
14年7月
I 築堤は水辺の郷駐車場の南を横切り、小さな林の中に入ると橋梁の跡らしきコンクリート構造物(写真I)を見つけることが出来る。写真の左右方向が鉄道で、上下方向を水路跡と邪推してみる。
ただすべて土砂に埋められ、実際に橋梁があったかの確認は取れなかった。
14年7月
この先は民家の庭先、農地、未舗装の農道等に利用されるが、以前はその中に小さな橋梁(写真J)も残されていた。今はこれも水路の整備と共に消え去っている。 J
83年8月
K
14年7月
その後、路線は左カーブで県道253号線に近づき、鋭角に交差して北側へ位置を移したのち明治村(写真K)に至る。森本交差点の北西角にあたり、森本東バス停が目印となっている。
列車交換設備や貨物ホームも備えた停車場で、農協の倉庫から西側の民家にかけての広い構内を有してたが、既に当時の雰囲気は一切感じられない。
L
15年9月
駅の東側は農道脇に放置された状態がしばらく続くが、藪に隠れた小橋梁(写真L)も確認できる。さらに東に進むと県道253号線に合流するが、ここからの県道は鉄道跡を拡幅転用したもので、車にとって快適な二車線道路として整備されている。
M 次の花ヶ崎(写真M)、続く県立公園の入口に位置する大池(写真N)も県道上に設けられていたが、道路整備と共にその痕跡はきれいに消し去られ既に正確な位置の特定は難しい。

南東に向きを変えた路線はやがて県道から右に分岐し、圃場整備の済んだ農地の中に飛び込み痕跡は消える。農地の東方でぶつかる用水路には、頸城鉄道時代のガーダー橋(写真O)が放置された姿をみせている。
14年7月

N
14年7月




O
15年9月

この先は放置された藪地となり、跡地をたどることは難しくなる。

再びその路盤を目にするのは、県道沿いに建つ大きな機械工場の裏付近からとなる。緩やかな下り勾配でほぼ直線に続く築堤がそのまま残り、途中には小さな橋梁跡(写真P)も見つけることができる。
P
14年7月
Q 築堤が終了すると左カーブでやや東に向きを変え、県道と交差した後は国道253号線に急接近し飯室(写真Q)に到着する。
行違い設備を持つ停車場で、今はその跡地を生かしバス停と地域活性センターに有効利用されている。

なお国道の番号は253号線、ここまで並走してきた県道も253号線と、偶然としてもよく一致したものだ。
14年7月
駅から東に向っては国道の北奥をつかず離れずで進み、その大半は農地や宅地に転用されている。

続いて浦川原体育館内を通り抜けると猿俣川に突き当るが、流路変更を伴う河川改修が実施され、既に橋梁位置の特定すら困難となっている。
川を渡ると今度はグランドにすべり込み、その駐車場付近に下保倉(写真R)が置かれ、入口道路の側溝の一部がレール方向に沿っているとの話も聞いた。
R
14年7月
S
14年7月
駅の東では再び農地の中にその痕跡を消しつつ下保倉小学校の北辺に達するが、一部は既に校内に取込まれている。

やがて北から北越急行ほくほく線が近づき、浦川原駅付近で合流し(写真S)その高架下にもぐりこむ。頸城鉄道が跡地を譲った区間だが、当時の痕跡は連続高架工事によってきれいに消し去られ何も残されていない。
T
83年8月
ほくほく線の下をたどると終点浦川原(写真T)に着く。当時の駅舎が原状に近い形で保たれ、東頸バスの本社ターミナルとして使われている。
列車は北側(写真U)に設けられたホームから発着していたが、廃止後は一旦バス乗場となり、さらにほくほく線の建設に伴い現状の姿へと変えられている。
U
83年8月
なお当初計画では浦川原中心部まで路線を延す予定だったが、地元用水組合の反対でやや中途半端と思われる現在地に決定したいきさつを持っている。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻160号臨時増刊/頸城鉄道/小林宇一郎 著 ・・・私鉄車両めぐり
  2. 軽便探訪/新井清彦 著/機芸出版社

参考地形図

1/50000   柿崎 [S27応修]   高田東部 [S35資修]
1/25000   潟町 [S5修正/S41改測]   高田東部 [S5修正]   安塚 [S5修正]

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最終更新2023-1/30  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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