加越能鉄道加越線を訪ねて

廃止鉄道ノート北陸・甲信越  減速進行

 地区:富山県小矢部市 区間:石動〜庄川町/*専用線 軌間:1067mm 動力:蒸気・内燃/*電気 *は庄川水力電気線

富山県内の中小私鉄が統合して出来た富山地方鉄道。やや離れた加越線が分離したのは戦後まもなくのことで、富山と金沢・七尾を結ぶ計画があり、旧国名より加賀の加、越中の越、能登の能を採って加越能鉄道と名付けられた。
当線の歴史は古く、昭和の初期には庄川に建設する小牧ダム専用線に接続し、建設資材も運んでいた。


 略史

大正 1 (1912) - 12/ 15 砺波鉄道 設立
4 (1915) - 7/ 21    〃 開業
8 (1919) - 9/ 17 加越鉄道に社名変更
昭和 18 (1943) - 1/ 1 富山地方鉄道に統合
25 (1950) - 10/ 23 加越能鉄道として分離独立
34 (1959) - 4/ 1    〃  富山地方鉄道より高岡軌道線を譲受
41 (1966) - 4/ 5    〃      〃    より越ノ潟〜新湊間を譲受
47 (1972) - 9/ 15    〃   加越線 廃止
平成 14 (2002) - 4/ 1 万葉線 加越能鉄道軌道線を譲受、開業

 路線図

* 地図上にマウスポインターを置くと加越線を表示します


 廃線跡現況
-加越線−

A
07年8月
加越線は北陸本線の石動(A参照)に接続する形で、その線路を延していた。
「いするぎ」と読み、難読な駅名の一つに数え上げてもおかしくない。はたしてどれだけの人が正しく読むことが出来るのか、興味のあるところ。
合併で今は小矢部市となったが、駅名は旧石動町時代からのものをそのまま採用している。

当時はJRとの共同使用駅だったが、南に並んでいたホームは既に撤去され、跡地は資材置場や駐車場に利用されている。
駅の西から自転車道となり、入口には福野まで11キロとの案内板も設置されている。


道なりに進むと大きなカーブで徐々に南に向きを変え、途中に北陸新幹線の通過点を示す用地杭(B参照)も姿を現す。
その北陸新幹線は、加賀と越中の境界に位置する倶利伽羅峠付近で、現在建設工事が進行中。
B
07年8月
C
07年8月
左カーブが終了すると南石動

その先終点の庄川町まで、ほぼ全線が自転車道(C参照)に転換されている。従ってこの路線跡は、津沢と福野付近の一部を除いて自転車で通行することが可能だ。

統計を取ったわけではないので推測になるが、昭和40年代、50年代に廃止された鉄道跡は、自転車道への転換が圧倒に多い気がする。
これは廃線跡を探索する人間にとって、マイナスに影響することが多いのだが・・・。
渋江川を越え、県道273号線と交差後しばらく並走すると四日町
同名のバス停付近から公民館にかけてが駅跡だが、付近に痕跡はなく近くに民家も少ないため聞取り調査も出来ず、詳細は不明のまま。

自転車道を南に進み、県道260号線との交差部にあったのが藪波(D参照)
当時の駅舎は公民館として今も現役。構内はかなり広く、農産物の集散地として活況だったことが偲ばれる。
またサイクリングロードのサービスエリアとして公園も設置された。
D
07年8月
E
07年8月
さらに田圃の中を突き進む線路跡は徐々に南東に向きを変え、北陸自動車道、続いて国道359号と交差(E参照)する。

その先は自動車も通行可能な舗装道路に変るが、小矢部川左岸に突き当って終了する。川を渡っていた橋梁は跡形もなく消え、自転車道も迂回を余儀なくさせられる。
川を越え津沢小学校を抜けると、再び加越線跡を利用した自転車道が東に延びる。
地元の方には失礼な表現だが、この地にはやや不似合いな洒落たビルが左手の視界に飛込む。当地創業のスポーツブランド「ゴールドウィン」のテクニカルセンターだ。ビルの横をすり抜け、やや南に向きを変えると津沢(F参照)に着く。

北陸線からは遠く離れ、現JR城端線となった中越鉄道からもかなりの距離を隔てていたため、当地区待望の鉄道停車場だった。また、開業当時の砺波鉄道本社も当地に置かれていた。
その鉄道在りし頃からの、駅前商店と思われる店はいまだ健在。
F
07年8月
G
07年8月
主要駅であったため駅構内は広く、東側は公園となり、また西側は沼田製粉工場内まで引込線が延びていた。
当時の荷扱用ホーム(G参照)が今もその姿をとどめる。

さて道なりに南東へと進み、鉄道廃止後に建設された東海北陸道をくぐると、国道471号に接近する。
しばらくの間を併走した後、国道から離れ始める位置に次駅の本江があった。
その後ほぼ真南に向くが、線路跡を再生した快適なサイクリングロードはまだまだ続く。
ただ廃線跡を探訪する側とすれば、この何の変化もない、何の痕跡も発見できないといった状況はやや持て余し気味となってくる。

気を取戻して左右に広がる散居を眺めつつ先に進むと、県道143号線との交差点の南がやや広くなっており、ここが野尻(H参照)の駅跡と推測する。
H
07年8月
I
07年8月
次の柴田屋(I参照)は市営バス停「柴田屋口」の前で、建設中の2車線道路西側歩道付近が線路跡に相当する。
少し前までは自転車道の休憩所としてサービスエリアも設置されていたが、既にそれも消滅している。

また、この鉄道に勤めていた人が付近にお住いで、当時の様子を伺うことも出来た。残念なのは、この珍しい駅名の由来を聞き損ってしまったことだ。

道路は現在も建設工事進行中で、一部の加越線跡をさらに飲込もうとしている。
拡幅された転用道路をしばらく走ると、再び自転車専用道となって緩やかな勾配で築堤(J参照)を上っていく。城端線をオーバークロスするためだ。


ほぼ平坦な線路を走っていた加越線にとって、矢部川橋梁に続く勾配らしい勾配となっている。
矢部川と違うのは築堤や橋梁が現在もそのまま残り、自転車道として再利用されている点だ。
J
07年8月
K
07年8月
遺構の少ないこの路線で、ここにはまさにハイライトと称すべき光景が目の前に広がる。

南北に延びる2車線市道を跨ぐ鉄橋(K参照)が当時のままで残り、左カーブで城端線を跨ぐ跨線橋も桁のみ交換されたものの今だ健在。

ただ自転車道としての活用度はやや低いようにも思えるが、この際あえて不問とさせて頂こう。何よりも遺構の保存が最優先、最優先!
写真を撮る小一時間ほどの間にひとりの利用者も見かけなかったのは、きっと偶々だったのだろう・・・。
城端線を越えると、橋梁メーカー川田工業の裏手を通って自転車道は一旦終了する


その先の路盤(L参照)は放置され、川田工業の新工場内へと入り込む。
構内には、過去に使用されていたと思われる引込線のレールが顔を覗かせるが、これと加越線との関連付は難しい。
L
07年8月
M
07年8月
福野(M参照)は城端線との共同駅だった。当時の跡地は既に川田工業の敷地内に取込まれ、運行時を偲ぶものは何も見つからない。

以前は駅前の東方に木造事務所があり、富山地方鉄道から独立後の一時期、加越能鉄道本社が置かれていたようだ。今、この跡地には中越産業の三階建てビルが建つ。

城端線との接続目的で大きくS字カーブを描いた路線は、その後南東へと向きを変える。
線路跡は川田工業の敷地内に入り込み、あるいは一部は敷地境界に沿ってカーブし、次いで生活道に合流する。
一旦東西に延びる市道と交差すると、そこからは再び自転車道となり終点を目指す。
同時に、やや離れて国道471号線が平行し始める。

焼野(N参照)は石油販売店に取込まれ、自転車道脇に置かれた、レールをコンクリートで固めたブロックが目に付く。駅施設で使われていたものか廃線後に作られたものか、なんとも奇妙だが、今は重しとして利用されている。
また並走する国道交差点にも同名の地名表示がある。
N
07年8月
O
07年8月
開業時の高瀬村から改称した高瀬神社(O参照)の北側には、鉄道運行当時からあったと思われる井波農協第3倉庫が建つ。
また南側には御子畑会館があり、廃線跡を利用した自転車道の両側にそれぞれ空地が大きく広がり、構内がかなり広かったことが偲ばれる。

隣の国道は拡幅と同時にルート変更されているが、駅前を通っていた旧道も残され、生活道として活用されている。
井波の旧駅舎(P参照)は立派なたたずまいを見せ、登録有形文化財に指定された今でも、井波物産展示館およびタクシー乗場として活躍中。
位置は列車運行当時からは、やや東に移転された。駅舎裏手にレールが走り、これをトレースした自転車道が真っ直ぐ延びている。

井波といえば欄間に代表される木彫刻が有名で、駅前から瑞泉寺へ通ずる参道沿いには彫刻店が軒を並べ、歴史を感じる古い町並と共に観光客を大いに魅了する。
加越線の駅舎はこの風景に程良くとけ込み、その存在感は大きい。
P
07年8月
Q
07年8月
北東に向う自転車道は、ほぼ一直線で東山見(Q参照)にたどり着く。

国道156号線との交点手前になるが、駅を示す跡地が広がっている。
さらに左カーブでやや北に方向を振ると、小川を跨ぎ小さな公園を抜け、二車線の舗装道に平行しつつ終点へとつながる。

開業当初の青島町から駅名の変った加越線の終点庄川町(R参照)は、鉄道廃止後バスターミナルに整備され、駅舎もしばらくは待合室として使われていた。

車庫も併設され、かなり広い敷地を有していたと思われる構内は、その後宅地として分譲され、残念ながら往時の面影を偲ぶすべは完全に消え去っている。
R
07年8月

−庄川水力電気 専用線−

S
07年8月
ここから先は庄川水力電気の専用貨物線となり、庄川に建設された小牧ダムへの建設資材を運ぶ目的で敷設された。加越線とは異なり自転車道への転換もなく、探索の楽しみもここからが本番となる。

加越線の庄川町を出ると連続した右カーブで南東へと大きく方向を変え、庄川体育センターの脇を抜ける。このカーブ跡が現在の2車線市道(S参照)と重なる。参考とした旧版地形図には南に分岐する引込線状の支線が描かれているが、こちらは跡をたどることは困難で、地元で聞いても要領を得なかった。
さらに船戸橋につながる東西の2車線道路を越すと、庄川の砂利採取を目的としたと思われる簡易軌道が合流する。合流点(T参照)は広い敷地を有し、大きな基地が構えられていた。ダム建設の資材置場として利用されていたのだろう。

跡地を利用して庄川峡保養センター「船戸荘」が設けられたが、それも今は更地に戻ってしまった。
T
07年8月
U
15年9月
この空地の西から「ホテルゆめつづり」の裏手にかけてそれらしき築堤が走るが、ここは専用線廃止後に設けられた庄川合口堰堤からの導水管が埋設されており、鉄道跡と紛らわしく勘違いしやすい。

専用線は船戸荘跡に隣接する喫茶店の建物東部分、続く南側駐車場を通り、その先は庄川合口堰堤建設により跡地がかき消されている。
線路跡の特定が出来ないまま庄川左岸を上流に向うが、温泉旅館の裏を通り抜け小川原の集落に入ると、民家脇に跨道橋の橋台(U参照)を見つけることが出来る。ここでようやくルートの特定が可能となる。

跡地は全て私有地となり畑となった場所もあるが、地中からバラストがかなり出てきて苦労したとの話を聞いた。
V
07年8月
W
07年8月
集落を抜けると並行する二車線の市道に合流する。同時に送電線用地としても再利用され始め、合流地点には目的不明な電柱が林立(V参照)している。

市道はそのまま高度を上げ国道156号線につながり、片や専用線は道路から左に分岐し連続した緩やかな上り勾配で小牧発電所横をすり抜ける。
発電所内の痕跡は確認出来ないが、その先から一車線の舗装路に転用され、唯一のトンネル(W参照)も当時の姿をとどめている。
ただ名称が不明なため銘板でもないかと探したが、これはどこにも見あたらなかった。

転用された道路(X参照)は緩やかな勾配と緩やかなカーブを持ち、いかにも山岳地の廃線跡といった風情を醸し出している。まさに失われた鉄道を実感する瞬間だ。
X
07年8月
Y
07年8月
その後右に大きくカーブを切り国道471号線と交差すると、転用道路は消滅、当時のレールは「おまき温泉スパガーデン和園」敷地内を通り抜けていた。
この温泉施設の先にも軌道跡と推測できる未舗装の農道があり、農地の中に石積の築堤(Y参照)なども認められる。

小河原の集落から続く送電線はここでも廃線跡に絡んで延び、線路跡の所在を教えてくれる。
この電柱はやや特異で、通常見かける1本柱のものではなく、2本が並んで設置され鳥居のような形をつくっているため、上方を走る国道156号線からでも発見は容易だ。
小牧ダム手前の集落の中に橋台跡(Z参照)を発見。農道と云うより獣道といった表現の方がよく似合う道だが、機械を持込む必要もなく、人が歩くだけの幅があれば十分なのだろう。

前後にはやはり鳥居型の電柱が延びるが、ダム方面はまさに藪の中といった状況に変り始める。
Z
07年8月
AA
07年8月
ダムの堰堤下には空地(AA参照)が広がり、ここが当時の専用線終着点で、兼、建設資材等の荷扱場所であったと推測できる。
庄川左岸を走る国道からここに降りる階段も設備されているが、通常は施錠され部外者は立入り出来ない。

ここから庄川に沿ってさらに遡ると、テレビのサスペンスドラマなどによく登場する秘境、大牧温泉へとたどり着く。
秘境と呼ばれるに至った歴史には小牧ダムも一役買っているが、それはまた別の機会にでも紹介させて頂こう。

では、ひと風呂浴びて帰るとするか。いや、ここは泊ってのんびりいくとするか・・・。


 参考資料


 参考地形図

1/50000  石動 [S28応修]    城端 [S28応修]    八尾
1/25000  石動 [S46修正]  城端 [S22資修]  倶利伽藍 [S5修正]  砺波 [S5測図]
 山田温泉 [S5修正]

 
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最終更新2015-10/15   無断転載禁止 Copyright (C) 2007 pyoco3 All Rights Reserved.