地区:北海道虻田郡洞爺湖町 区間:虻田〜洞爺湖〜湖畔/8.6km 軌間:1067mm/単線 動力:電気
洞爺湖畔で見つかった温泉。これを観光資源とすべく、開業間のない室蘭本線に接続する小鉄道が計画された。旅客のみならず洞爺湖岸の鉱山輸送も手掛けたが、業績は低調で、晩年は保線もままならない状態で終焉を迎えてしまった。昭和 | 4(1925) - | 1/ | 23 | 洞爺湖電気鉄道 | 開業 |
16(1941) - | 5/ | 29 | 〃 | 廃止 |
A | 室蘭本線との接続駅洞爺には、構内北側にホーム跡(写真A)が残る。側壁の形状が独自なため、省線の貨物ホームではなく、洞爺湖電気鉄道の遺構である可能性は高い。確認のため駅事務所でも尋ねてみたが、情報は得られなかった。なお開業当初の駅名は虻田と称していた。 | ||
18年6月 |
JR線に沿って出発した路線は、最初の踏切で左に曲がり、道道578号線に合流する。さらに次の信号交差点からは町道(写真B)へと変わる。 道路は線路跡を拡幅転用して建設され、一部に曲線の緩和箇所も見られる。 |
B | ||
18年6月 |
C | 道なりに進み、道央道を越えると右に旧町道が分岐する。1977年有珠山噴火後に避難路として拡幅整備された道路だが、2000年の噴火により被災し、旧洞爺湖幼稚園から先は車両の通行が不可能になってしまった。今は損壊区間に沿って火口散策路が整備され、歩行者の通り抜けのみ可能になっている。 鉄道路線は散策路の駐車場付近(写真C)で一旦道路から離れ、幼稚園の南側を急カーブで抜けた後に再合流したが、この区間はすでに藪地に包まれている。 |
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18年6月 |
連続した登り勾配の散策路を進むと、頂上付近に土砂に埋もれた速度標識(写真D)、続いて下り坂に入ると、隆起により階段状となった舗装面(写真E)などを目にすることができる。ただ残念だが被災の爪痕は大きく、鉄道の痕跡を探し出す術はない。 | D | ||
18年6月 |
E | 下り勾配が終わると、散策路も北口に到着し終了する。線路跡はしばらく未舗装路(写真F)として続いた後、右から接近してきた旧国道(写真G)に合流する。 | ||
18年6月 |
F | G | |||
18年6月 | 16年9月 |
旧国道はその後、右カーブで180度反転し、途中には唯一の中間駅見晴が設けられていたが、既に駅の痕跡はない。 鉄道側はカーブ途中でさらに内側へと切り込み、道路上から外れる。大半は被災後に森林と同化してしまうが、その中にも橋梁跡(写真H)を見つけることができる。河川橋ではなく、当時太平洋岸と湖を結ぶ唯一の道路上に架けられた跨道橋跡と聞いた。 |
H | ||
18年6月 |
I | 終点洞爺湖(写真I)は市街地の傾斜を登り切った南端に設けられ、跡地は町営住宅に利用されていたが、砂防ダムの設置により、まわりの町並みと共にきれいに消え去ってしまった。旅客は当駅止まりだが、貨物列車はスイッチバックしたのち右カーブで大きく反転し、洞爺湖岸まで運行されていた。 | ||
16年9月 |
その貨物線跡は一部が公園として整備され、また一部には築堤らしき痕跡(写真J)も認めることができる。 | J | ||
16年9月 |
K | 貨物駅の湖畔(写真K)は跡地の把握が難しく、湖岸の駐車場付近ではないかと推測するにとどめた。下記参考資料には遊覧船置き場、物語虻田町史では協会病院東側との記述もある。構内の横に桟橋があり、湖上の舟運と連携し、湖周囲に位置する鉱山の産出品を運搬していた。近くの観光船乗り場が駅前桟橋を名乗るが、鉄道廃止後につくられた施設のため、当線とは直接関係なさそうだ。 | ||
18年6月 |
1/50000 | 虻田 | [S6鉄補] | ||
1/25000 | 洞爺 | [該当無] | 虻田 | [該当無] |