北海道拓殖鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート北海道 減速進行

 地区:北海道上川郡新得町  区間:新得~上士幌/54.3km  軌間:1067mm/単線  動力:蒸気→内燃

社名に含まれる拓殖の文字通り、未開の地を開拓することを目的に設立された鉄道。森林鉄道を引き継ぎ木材の搬出にも利用されたようだが、当然ながら沿線の人口は希薄で、収支は低迷続きだった。それでも何とか昭和中期まで路線を維持したが、自動車への移行が進むと、その役目を終えることになった。

略史

昭和 3(1928) - 12/ 15  北海道拓殖鉄道 開業
6(1931) - 11/ 15      全通
43(1968) - 10/ 1       廃止

路線図


廃線跡現況

A
23年6月
根室本線に隣接し接続駅となっていた起点の新得(写真A)。その跡地は現在駐車場等に再利用され、JRの構内にレールのはがされた路盤(写真B)が続くものの、立入は禁止されている。この中に含まれる跨道橋と水路橋(写真C)、さらに道道136号線の跨道橋は根室本線との共用設備と思われる。

続くペンケオタソイ川に痕跡は認められない。

B
23年6月
C
23年6月

D
23年6月
機関庫や転車台を備えた主要駅南新得(写真D)は、鉄道名を冠した拓鉄公園と系列のバス営業所に変わっている。営業所内に駅舎跡の標柱があるものの、当時の駅舎が現存するわけではない。
なお自然豊かな地でもあり、樹木中心の公園にひと気はない。
E
23年6月
駅を出て国道38号線を横切り、しばらく進むと佐幌川に突き当たる。橋梁に近づくことは難しいが、若干離れた道路橋から川底に倒れた橋脚(写真E)を望むことができる。数年前の台風で倒壊したとの話を現地で聞いた。
F
23年6月
川の先は完全に藪地化した山裾を走る。上佐幌川近くの大きなカーブ地点は路盤(写真F)を確認できるとも聞いたが、既に周りの雑木林との区別はつかなくなっている。
G
23年6月
カーブ終了後、今度はきれいに整地された農地内に入るため、やはり線路跡を直接たどることはできない。ただ一部に帯状の樹林帯が延び、遠目に線路位置を教えてくれる。
佐幌(写真G)は既に農地に取り込まれ、おおよその位置を把握するにとどまる。
H
23年6月
この先も農地や路盤跡の樹木帯が交互に現れ、途中には完全に藪地化した箇所も含まれる。
北東方向に進む路線が東へと向きを変え、十勝川水系のトンビ川を越えると屈足(写真H)に到着する。十勝上川森林鉄道が接続し木材輸送の拠点となっていたが、その土場を含めて今はただただ大きな空き地が広がるばかりだ。
I
23年6月
駅の東を流れる十勝川(写真I)に、橋脚の基礎と思われるコンクリート塊を見つける。円形らしき形状は若干崩れているものの、ルート上に位置することから拓殖鉄道の遺構と考えてよさそうだ。ただし両岸の橋台は確認することができなかった。
J
23年6月
川の先は丘陵に沿って南下しはじめ、線路跡は自然林の中に吸収されてしまう。ここでルートをたどる手掛かりは消え、途中に置かれていた熊牛や同トンネルへのアクセスはあきらめた。
平地側となるトンネル出口(写真J)も、それに続く掘割と共に既に埋め立てられ、痕跡は認められない。
K
23年6月
埋立地は樹木帯(写真K)に変わり、その東端で十勝鉄道と交差(写真L)する。当線が下をくぐる立体交差となっていたが、両線の連絡駅は設置されていない。既に十勝側の築堤は全て削られ、当時の雰囲気を感じ取ることは難しい。
交差後は区画整理された農地に入り込み、その中に位置した新幌内(写真M)も旧版地図からおおよその位置を把握するにとどまる。

L
23年6月
M
23年6月

N
23年6月
駅の東にはまたも樹木帯が現れるが、こちらは本来の風防林と思われ、背の高い樹木が立ち並ぶ。線路跡はその北側を走る農道に転用されたようで、そのままハギノ川の東(写真N)へとつながっていく。
O
23年6月
しかしこの道もすぐ藪地の中へと消えてしまう。ここで北に向きを変えた路線は、二度目となる十勝鉄道との交差(写真O)に突き進む。今度は当線が上を跨ぐ立体交差で、その橋台が「しかおいパーク」近くに残され、現在は鹿追町の指定文化財となっている。
P
23年6月
その後やや東に向きを振って然別川を渡る。同所に橋梁の痕跡は認められないが、川の対岸から線路跡を一部転用した舗装路(写真P)がはじまる。そのまま鹿追の市街地に入り中鹿追(写真Q)に至る。ちょうど町役場駐車場のど真ん中あたりに相当する。
さらに一旦病院内を抜けた後に左カーブを描き、再度北に向きを変える。カーブ途中から二車線道路(写真R)に転換され、緑本通の名称が付けられる。

Q
23年6月
R
23年6月

S
23年6月
市街地の北側に設けられていたのが主要駅の鹿追(写真S)で、対向設備や貨物側線を持っていた駅跡はJA施設に転用され、南側の一部が系列バスの営業所として利用されている。当初東側に方向転換用のデルタ線も設けらていたが、ここはスポーツ施設に変わり、隣接する公園にはSLも展示保存されている。
T
23年6月
JAの北方は一旦舗装路に戻るが、すぐに終了し区画整理された農地の中に入り込む。最初の一面を過ぎると、一列に雑木が生い茂る樹木帯が久々に現れる。その隣に水路と農道(写真T)が併走し、当時の空中写真から、こちらが線路跡の転用と判断できる。
U
23年6月
北笹川(写真U)は飼料工場の北端付近で立ち入ることができず、道路脇から遠望するしか術がない。といっても、ここまでの現状から、遺構が残されている可能性は限りなく低いと考えられる。
V
23年6月
駅の北ではルートに沿った水路が築かれ、これが鉄道跡と思われるものの確証はつかめない。さらに、痕跡を飲み込んだ農地の先に自衛隊前(写真V)が置かれていた。ここは背の高い樹木による風防林が東側に隣接し、西側の線路跡と駅跡は既に農地に転用されている。
W
23年6月
北上する路線は相変わらず農地内に身を隠しつつ、国道274号線の手前で大きく東に向きを変える。
デルタ線を備えていた次の瓜幕(写真W)は公園となり、当時の写真を載せた記念碑なども設けられている。
X
23年6月
ここから東に向かっては、やはり農地、牧草地に利用され、瓜幕川は近づくことさえ難しい。地形図は、河川側が暗渠でくぐり抜けていたことを示している。
中瓜幕(写真X)も農地の中に埋没し、正確な位置の特定は不可能といわざるを得ない。
Y
23年6月
西十五号線上に設けらていた東瓜幕(写真Y)。道道54号線は駅に道路を分断され、大きく西に迂回していた。この北側が駅前街路ということになる。今は逆に直線化された道道に駅跡を分断され、東側の公園とも呼べないような空き地に案内看板とレールのモニュメントが置かれている。
Z
23年6月
駅の先も線路位置の特定が難しい中、やがて北に向きを振って国道274号線を越える。ここに農道となった路盤が久々に顔を出し、そのまま樹林帯の中を切り裂くような線路跡(写真Z)につながる。
AA
23年6月
さらに路盤を転用したと考えられる水路(写真AA)が農地の中に続き、ルートの把握が突然容易になり始める。ただこれも長くは続かず、殖民区画の二十九号を越えるとそのラインは再度農地の中に姿を隠してしまう。
AB
23年6月
ここで向きを北に変えると、やはり農地のど真ん中となる中音更(写真AB)に至る。開業初期に終着駅を担っていた時期もあり、西側には方向転換用のデルタ線を有していた。なお駅前後にそれらしき水路が延びるものの、当時の路線はこの東側を並走していた。
AC
23年6月
駅の先はしばらく音更川の右岸奥を進み、一部は未舗装路(写真AC)として利用されつつ、そのまま音更川の渡河へと向かう。ただ雑草と雑木で架橋部には近づけず、堤防道路上から観察するも痕跡は発見できなかった。
川の対岸は再び区画整理された農地の中に取り込まれ、その中に風防林に沿った線路跡が農道として現れるが、これもほんの一瞬に限られる。
AD
23年6月
次に路線を確認できるのは上幌呂市街の入口で、最初はやはり未舗装の農道(写真AD)に転用され、中心部に近づくと二車線の舗装路(写真AE)に変わる。
やがて道路は製材所に突き当たって左に逸れ、鉄道側はその中をまっすぐ突っ切り終点の上士幌(写真AF)に到着する。士幌線との接続駅だったが同線も既に廃線となり、現在は駅前通りが構内を突き抜けて東西を結んでいる。この北側が交通公園として整備され、南側は植樹された緑地帯に変わる。

AE
23年6月
AF
23年6月

-保存車両-

AG
23年6月
鹿追町の緑町交通公園に保存されたSL。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第一分冊/北海道拓殖鉄道/関長臣 著

参考地形図

1/50000   上士幌 [S23資修]   然別湖 [S24資修]   東士狩 [S23資修]   新得 [S31測量]
  中士幌 [S23資修]
1/25000   上士幌 [該当無]   中音更 [該当無]   中士幌 [該当無]   新得 [S36測量]
  瓜幕 *[S31測量]   鹿追 [S36測量]   十勝清水 [S36測量]

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制作公開日2023-10/23  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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