釧路鉄道を訪ねて

廃止鉄道ノート北海道  減速進行

 地区:北海道川上郡弟子屈町 区間: 標茶〜跡佐登41.8km
ウノシコイチャルシベ〜ヲンコチャル1.4km
軌間:1067mm単線 動力:蒸気

道東で産出される良質な硫黄搬出を目的として建設された鉄道。北海道では二番目とも三番目ともいわれる先駆的な開業だが、資源の枯渇により十年程で廃止されている。同時期に道内の鉄道網を整備する計画が浮上し、この中の釧網線が当路線と重なることとなった。これを好機ととらえた釧路鉄道は、路盤を含めた設備一式を新線への転用を前提として北海道に売却した。しかし鉄道用地そのものは元々北海道から貸与された土地で、設備に対価を払うことには批判もあったようだ。しかも実際に釧網線が開通したのは昭和に入ってからで、30年以上の空白期間を生じている。このことも要因となるのか廃線跡の痕跡は少なく、駅跡は全て推測となってしまった。


 略史
明治 20 (1887) - 11/ 釧路硫黄山安田事務所専用線 開業
25 (1892) - 9/ 1 釧路鉄道として独立、旅客営業開始
29 (1896) - 8/ 1    休止
30 (1897) - 10/ 31    廃止

 路線図

地図上にマウスポインターを置くと釧路鉄道を表示します


 廃線跡現況
A 始発の標茶(A参照)には精錬所が置かれ、鉄道で運び込まれた硫黄鉱を精製していた。従って工場併設の広い構内を有していたはずだが、廃止より百年以上経過している上、当時の地図精度では現標茶消防署を含む付近一帯としか判断のしようがない。
構内の北には方向転換用のデルタ線と車庫も設けている。

なお、ここからの製品出荷は隣接する釧路川の舟運を利用していた。
16年9月
駅を出発してすぐは釧網線とルートがほぼ重なるようだが、小さな左カーブを過ぎると両者は併走して北に向かう。釧網線の東隣に現われる道路が釧路鉄道の路盤跡となるようだ。南側は未舗装(B参照)で途中から舗装された二車線道路に変わる。

道路上を進むと多和川を越える手前で釧路鉄道は左に別れ、やがて釧網線に近づき合流する。この区間は既に農地となり、その痕跡を見つけることはできない。
B
16年9月
C 合流後の両線は、摩周駅手前まで同一ルート上を走ることとなる。途中には機関車への給水給炭地点として、イソブンナイ休泊場が設けられていた。

釧網線上から釧路鉄道が再び別れるのは、南弟子屈を越え国道391号線が東隣に並走を始める地点からで、西隣の未舗装路(C参照)が釧路鉄道の路盤に相当するようだ。
ただ両者は完全に平行しており、当時の旧路盤がなぜ釧網線として利用されなかったのか、やや疑問の残る区間だ。廃止後30年以上放置されたことが、なんらかの阻害要因を作った可能性も考えられる。
16年9月
その未舗装路上を北西に進むと、道路の両サイドに農業倉庫(D参照)が現われる。下記参考資料1によると、ここをニタトロマップの駅跡と推定しているが、旧版地形図では少し離れた仁多川の右岸側を示している。ただ、どちらも既に痕跡はなく、情報も集まらないため場所の特定は諦めた。
当時は周囲に一軒の人家もなく、休泊場同様、給水給炭を主目的とした駅であったと想像できる。

駅を出ると右カーブを描いて国道と交差し、その東隣を北上する。
D
16年9月
E 国道243号線に突き当たった後は農地や林の中を通り抜け、ルートの特定は不可能となっている。途中でオシャマンナイ川と坪の沢川の二本の川を越えるが、どちらも近づくことすらできず、橋梁跡の確認は難しい。

再び路盤跡を目にするのは弟子屈原野からで、まず牧草地の中から草に覆われた未舗装路(E参照)として姿を現わし、四十三線道路と交差後は二車線の舗装路に変わる。ここからの道路は鉄道跡を拡幅転用して建設されている。
16年9月
北海道独特ともいえる快適で極端に通行車両の少ない道路上を北西に進むと、やがて小さく右に曲がり五十線道路に突き当たる。釧路鉄道はこの右カーブ地点をそのまま直進し、左手に接近してきた釧網線と合流する。
しかしルートが重なるのはほんの短区間で、すぐに分離し、今度は西側を平行する国道391号線上(F参照)に移る。ここからの国道も鉄道用地を拡幅転用したもので、快適な二車線道路となっているが、当然ながら鉄道跡として見るべきものは何もない。

北西に進む国道が北東に向きを変え美留和の集落を過ぎると、釧路鉄道は道路から微妙に離れ始め、右手の藪地の中に突き進んでいく。
F
16年9月
G その路線は再び釧網線に近づき、左カーブの一部区間のみで合流する。釧網線はカーブ終了後北上するが釧路側はそのままカーブを続け、今度は国道を横切る。

交差部付近に位置したのがウノシコイチャルシベで、ここから硫黄山の南裾へ延びる貨物支線が分岐していた。やはり痕跡を発見できず駅位置の特定は無理だったが、国道の東側では林の中に続く当時の路盤跡(G参照)をはっきり見通すことができる。現在は草が生い茂るものの、以前は作業道として利用されていたような雰囲気も感じる。
16年9月
また何とも舌を噛みそうなこの駅名、現地で話を聞く人も見つからず、幸か不幸か口に出して発音することは一度もなかった。

貨物支線は池の湯林道(H参照)に組み込まれ、未舗装ながら走りやすい道路に変わっている。ただ 終点のオンコチャルは林道上から北にはずれ、既に自然に還った駅跡にたどり着くことは難しい。
H
16年9月
I 北に向かう本線側は林の中に飲み込まれ、その路盤跡さえ探し出せない。硫黄山東側に設けられた貨物駅のポンチクワッカも、同様に木立の中に埋没する。

ただ駅の北方で右手の国道から延びる作業用林道と交差したのちは、当時の築堤を利用した散策路(I参照)が現われ、ようやくルートの特定が可能となる。散策路は青葉トンネルと命名されるが、実際にトンネルが掘削されていたわけではなく、森林の青葉に囲まれた状態を指しているようだ。
16年9月
倒木等に邪魔されつつ青葉トンネルを進み、硫黄山の山裾に沿うように大きく左カーブを描くと、途中にレールを使用した可動式のゲート(J参照)を見つける。

釧網線用としては細過ぎると考えるが、釧路鉄道時代のレールなのか、あるいは近在の簡易軌道から運ばれたものか、判断はつかなかった。
J
16年9月
K カーブが終了しトンネルを抜け出ると、終点跡佐登(K参照)に到着する。駅跡はレストハウスとその駐車場に利用されている。
硫黄鉱の出荷拠点でもあり、また標茶同様、方向転換用のデルタ線をはじめとする各施設を併設していたと考えられ、大きな構内であったことが想像できる。

背後にそびえる硫黄山は地質の影響からか樹木が育たず、古くは裸の山を意味するアトサヌプリと呼ばれ、駅名もこれに由来した。
なおレストハウス内には、鉄道の歴史を紹介したコーナーが設けられている。
16年9月

 参考資料
  1. 標茶郷土館報告/歴史の彼方の鉄路/長浜亮 著
  2. 北海道鉄道百年史

 参考地形図
1/50000  標茶 [M30製版]  磯分内 [M30製版]  弟子屈 [M30製版]  屈斜路湖 [M30製版]
1/25000  標茶 [該当無]  磯分内 [該当無]  南弟子屈 [該当無]  弟子屈 [該当無]
 美留和 [該当無]  川湯 [該当無]

 
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制作公開日2016-10/27  無断転載禁止 Copyright (C) 2016 pyoco3 All Rights Reserved.