定山渓鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート北海道 減速進行

 地区:北海道札幌市  区間:白石〜定山渓(29.9km)真駒内〜米軍キャンプ(2.7km)定山渓〜貯木場(0.9km)  軌間:1067mm単線
 動力:蒸気・内燃→電気
札幌の奥座敷、定山渓温泉への行楽客誘致のため敷設された鉄道は、次第に木材や鉱産品輸送の比率が増え、産業鉄道の様相を呈し始める。しかし自動車の発展と共に輸送量は減少し、札幌五輪開催を控え一部跡地を地下鉄に譲って廃止された。その後は社名を「じょうてつ」へと変更し、バス運行を主体に経営している。

略史

大正 7(1918) - 10/ 17  定山渓鉄道  開業
昭和 4(1929) - 10/ 17     電化
44(1969) - 11/ 1     廃止

路線図




廃線跡現況

当初の計画では豊平川左岸に線路を敷設し、函館本線苗場駅からの分岐を予定していたが、河川改修によって用地の確保が難しくなり、実際のルートは右岸へと変更され、起点も現JR白石(A参照)となった。 A
94年5月
B JR線に沿って北西に向かうと、道路脇に橋台跡(B参照)を見つけることができる。確認は取れなかったが、煉瓦造りであることや、その位置関係から定山渓鉄道の遺構と考えられる。

その後、左カーブで西に向きを変えた路線は、区画整理された市街地に飲み込まれ、今では跡地をたどることも難しい。
94年5月
苗穂から分岐する千歳旧線の開通と同時に設置された共同使用駅で、実質上の起点となった東札幌(C参照)。一時は同線を経由して苗穂、札幌への直通列車も設定された。

定山渓鉄道廃止後に千歳線は平和から分岐するルートに変更され、旧線はしばらく貨物線として使用されたが、これもやがて廃止され、同時に駅も消滅した。
18年現在、跡地には大規模商業施設が建ち、痕跡を探し出す術はない。
C
94年5月
D 駅の南から国鉄跡は遊歩道に変わるが、定鉄跡にはマンション等が建ち並び、その中に「じょうてつ」本社ビルも含まれる。

市街地を南西に進み、国道36号線を越えると二代目豊平(D参照)に着く。バス会社事務所として長く残され、当線の象徴でもあった駅舎は、既に高層マンションへの建て替えが済んでいる。なお、旧版地形図の昭和3年版と10年版を比較すると、駅が二百メートル程移動していることを確認できる。
94年5月
開業当初の旧豊平はスーパーに変わり、道路側の側壁に案内板(E参照)が掲げられている。駅移動後はその駐車場共々、機関庫等に使用されていたようだ。

さらにマンションや公園等の一画を抜けると、街なかの生活道(F参照)としてその姿を現す。道路に沿って進むと、やがて地下鉄南北線がシェルターを伴って地上にせりあがり(G参照)、定山渓鉄道の跡地と置き換わる。
E
18年6月

F G
18年6月 94年5月

H 当時は地上に澄川慈恵学園真駒内(H参照)緑ヶ丘の各駅が続いたが、高架上を走る地下鉄では、これと特に関連なく設けられた駅が多い。

また途中の高架下には、昔の交通局車両の展示場も設けられている。雨露をしのげるはずだが、管理上の問題なのか、いたって状態は悪い。
18年6月
現在は自衛隊基地となった米軍キャンプへの支線も、既に住宅地に取り込まれ、一部は市道(I参照)と重なるようだが確証はない。

地下鉄の終点を過ぎると、当時の築堤が平岸通脇に顔を出す。路面は藪地となるがルートの確認は取りやすい。遊歩道として利用される区間もある。
I
18年6月
J 真駒内川を渡る箇所は、国道453号線をアンダーパスする北行き一方通行路が、線路跡に概ね一致する。しかし川を越えたのちは徐々に道路から北に離れ、下り勾配で一気に駆け抜ける。全線を通じて定山渓への登り坂が続く中、逆向きの大変な難所でもあったようだ。

坂が終わり小さな川を渡ると、当時の石垣擁壁(J参照)やそれに続く築堤(K参照)を確認できる。一部区間には遊歩道(L参照)もつくられ、定鉄跡地線の案内看板も立てられている。
18年6月

K L
18年6月
94年5月

その後は二車線道路に合流して、石切山(M参照)に至る。当時の駅舎が、地区の振興会館としていまだに健在なのは嬉しい限り。正面には駅名標を模した看板も掲げられている。

ここから豊平川を渡って採石場まで延びる支線もあったが、その痕跡を見つけることは出来ない。駅西側の一車線道路がルートに重なるものの、線路跡を転用したのかは疑わしい。
M
94年5月
N 本線側は一車線道路として南西に続き、穴の川を渡り小学校内を抜けたのち、今度は未舗装路(N参照)へと変わり、国道230号線に突き当たって終了する。
18年6月
国道を越えると、生活道脇の空き地(O参照)としてつながっていく。

地下鉄の延伸計画がいまだ温存されているのか、あるいは何も決まらず全く白紙状態なのか、一部が個人の駐車場や家庭菜園等に使われているに過ぎない。
O
94年5月
P そんな中で、豊平川支流のオカバルシ川に架かる橋梁跡(P参照)を見つけることができた。ただ大幅な河川改修が実施されたことにより、その姿は既に過去のものとなってしまった。

川沿いの建物も大きく変わり、18年現在では唯一、左岸奥の二階建アパートが同一場所であることを証明してくれる。
94年5月
川の先は緑地帯となり、藤野東公園の散策路へと続く。

公園は藤の沢(Q参照)の跡地を利用してつくられ、以前は地下鉄の延長が考慮されていたのか、きれいに整地された大きな空地だった。駅跡を示す標柱もある。
また豊羽鉱山選鉱所への貨物線は、ここから分岐していた。
Q
94年5月
R 西に向かう路線は、南側を通る国道230号線の沿道店舗に取り込まれたり、あるいは一部が道路転用されたりしつつ十五島公園(R参照)に着く。ここにも構内東端に標柱が設けられている。

さらに住宅地や店舗、公園を抜けると、野々沢川にぶつかる。川の左岸に旧下藤野(S参照)、西側を流れる東野々沢川左岸に新下藤野(T参照)と、新旧両駅が存在した。標柱は新駅側に立つが、位置のずれが目立つのはやや残念なところ。
18年6月

初代下藤野駅跡 S T 二代目下藤野駅跡
94年5月 18年6月

国道に近接して走っていた定山渓鉄道は、駅を過ぎると豊平川右岸へ移動する。しかしその跡地は藪に包まれ、人の立ち入りを拒んでいる。地図上には破線の小道が描かれるものの、実情とは大きく異なる。

路盤が再び現れるのは、国道に転換され始める東簾舞[ひがしみすまい]付近からとなる。駅の西に残されていた簾舞川橋梁(U参照)は、道路転換時に姿を消している。
U
94年5月
V 簾舞(V参照)は当時から木材の集積地で、鉄道廃止後もしばらく製材を積上げていた土場は、18年時点で完全な空き地と化している。

この先も豊平川右岸を進む線路跡は、既に放置状態で、雑木等に阻まれ直接たどることは難しい。途中の豊滝は国道側から沢伝いに降りた地点と聞いたが、こちらも背丈以上の雑草が生い茂り、進入はあきらめざるをえなかった。まるで秘境駅のようだ。
94年5月
雑木林を抜けだし、最初に広がる空き地が滝ノ沢(W参照)となる。構内に植えられた桜の保存会が結成され、その由来を記した案内看板も設置されている。 W
94年5月
X 駅を出ると二車線道路の北隣を走り、鱒の沢川では道路側から橋梁跡(X参照)を確認でき、奥には送水管も見える。

以前は道路橋と水平に並んでいたが、近年道路側がかさ上げされたようで、雑草に遮られる割合が増えつつある。
94年5月
小金湯(Y参照)は、平行していた二車線道路と線路跡が交差し、その位置を変える西側に置かれていた。

鉄道廃止後、待合室は民家に改修され跡地を示す標柱も見られたが、その後の道路拡幅によって痕跡は削り取られてしまった。
Y
94年5月
Z ここからの線路跡は再び自然の中に飛び込み、トレ−スは困難になる。

しばらくして一の沢(Z参照)に近づくと、未舗装路に転換された路盤が現れる。但し駅跡は道路の北側となり、この区間では多少のずれが発生する。
18年6月
駅の西で越える一の沢川では、煉瓦造りの橋梁跡(AA参照)を見つけることができる。さらに西方に、同じ煉瓦造りの橋台(AB参照)が連続する。今は無き一の沢発電所の導水管を越える橋梁跡だ。

また同所には距離標(AC参照)も残されている。
AA
18年6月

AB AC
18年6月 18年6月

AD その後一旦国道230号線に接近し、豊平川に架かる道路橋、百松橋を越えると再び北に分離する。

廃線跡を直接たどるのは困難なため国道側を進み、錦トンネルを抜けると旧道が右に別れる。定山渓鉄道はその旧道と交差した後、南奥を並走し始める。
路盤上には一部で民家も建つが、大半は荒れ地となり、じょうてつ管理地の立て看板(AD参照)も目に入る。
18年6月
豊羽鉱山への貨物線が分岐し、鉱産物輸送の拠点となった錦橋(AE参照)。今は空地となった構内はかなりの広がりを見せ、当時の活況がしのばれる。

構内の東方には、路盤を形成した石垣擁壁も残されている。
AE
94年5月
AF 駅を出ると左カーブで南西に向きを変えたのち、国道230号線に再合流し、白糸ノ滝(AF参照)へと向かう。
温泉街のはずれに位置した駅跡には娯楽施設が建てられていたが、18年時点では更地に戻されている。

なお駅名の元となった滝は、案内表示がなく探し切れなかった。
94年5月
その後はホテルや民家等に取り込まれながら進み、温泉街の中心に設置された終点定山渓(AG参照)へと到着する。

今は公園となり昔日の面影はないが、ここから更に森林鉄道の貯木場まで側線が延び、木材輸送にも一役買っていた。
AG
94年5月

−豊羽鉱山専用線−

 区間:錦橋〜オンコノ沢(6.2km)藤の沢〜選鉱所(2.1km)  軌間:不明→1067mm  動力:馬力→蒸気→内燃
 開業:不明  廃止:S38 (1963)

AH 当初馬車鉄道として開業した、鉱山の専用線。いつから運行を開始したか不明だが、大正15年の地勢図には、すでに軌道のルートが描かれている。輸送量の増加に伴って蒸気動力線へと変わり、定山渓鉄道との直通が可能となったのちは、錦橋から直接乗り入れた。

西に向かう路線はすぐに豊平川を渡り、平行する市道から、今も橋台跡(AH参照)を目にすることができる。川の先には路盤らしき空地と共に、切通の石垣擁壁が残されている。
18年6月
さらに道道1号線との交差部は、舗装目地が線路跡に沿って区分けされ(AI参照)、埋設物がある可能性を示唆している。

専用線はその後も道道の南脇を進み、人家が途切れると次第に雑草に覆われ、路盤の認識は難しくなる。
AI
18年6月
AJ 沿線に建つ生ごみ堆肥化施設を過ぎると道道の北側に移り、そのまま白井川を渡る(AJ参照)
前後の築堤が残され、一部は作業道として利用されているものの、橋梁跡は確認できない。
18年6月
道道1号線が北に向きを変えて離れていくと、今度は95号線が隣接する。

相変わらず路盤上には雑草が生い茂るが、鉱山の抗水処理場手前まで来ると、道路脇に橋梁跡(AK参照)を発見する。両側の橋台と橋脚一基だ。
AK
18年6月
AL 続いて渡る白井川にも橋台らしき構造物(AL参照)を認めるが、やや離れた道路橋からの遠望でもあり、鉄道の遺構と断定できないのは残念なところ。
18年6月
終点のオンコノ沢(AM参照)は、雑草の生い茂る平らな空き地が広がるのみとなり、貨物ヤードや積込み施設等があったであろう、昔日の活況を偲ぶべくもない。

なお鉱山の中心は、ここからさらに数キロ西方の奥地となる。
AM
18年6月
AN 定山渓鉄道の藤の沢から分岐する選鉱所への支線は、駅を出るとやや南に向きを振り、国道230号線をオーバークロスで越えていた。道路の拡幅工事に飲み込まれたのか、跨道橋の痕跡は見当たらない。

国道の南側では、石山南小学校と石山中学校の境界道路(AN参照)が線路跡に一致する。
18年6月
ただ道路はすぐに終了し、その後は新興の住宅地に取り込まれるため、跡地をたどることは不可能となる。住宅の一画を抜けると選鉱所跡(AO参照)が現れ、18年現在も事務所には数台の車が止められている。

当時、オンコノ沢との間でディーゼル機関車による直通貨物列車が頻繁に運行されていたが、今はどこにもその面影はない。
AO
18年6月

参考資料

  1. 定山渓鉄道/久保ヒデキ 著/北海道新聞社
  2. 鉄道ピクトリアル通巻232号/定山渓鉄道/小熊米夫 著・・・私鉄車両めぐり
  3. 鉄道ピクトリアル通巻384号/晩秋と早春の定山渓鉄道跡/堀淳一 著

参考地形図

1/50000   札幌   定山渓 [S28二修]   石山 [S35修正]
1/25000   札幌東部 [S10修正]   札幌 [S3鉄補]   石山 [S25二修]   定山渓 [S41修正]

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最終更新2019-6/8 
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