播電鉄道を訪ねて
廃止鉄道ノート関西 減速進行

 地区:兵庫県たつの市  区間:網干港〜新宮町(16.9km)糸井〜網干(0.4km)  軌間:1435mm単線  動力:電気

標準軌の軽便鉄道として一部のファンにはよく知られた鉄道。旅客と共に全国的に有名な醤油やそうめん等の貨物輸送も視野に入れ、揖保川沿いの各地を結んだ。ただし当初は軌道として開業し、のちに軽便鉄道へ移行した経緯を持つ。国鉄へ直通できない標準軌を選択したのは、当時はまだ水上の舟運が物流の中心であったことが、その要因のひとつであることは間違いなさそうだ。

路線図

播電鉄道路線図

略史

 明治 42(1909) - 1/ 1  龍野電気鉄道(網干〜龍野) 開業
大正 4(1915) - 7/ 21  新宮軽便鉄道(嘴崎〜新宮) 開業
9(1920) - 4/      龍野電気鉄道を合併 播州水力電気鉄道に改称
14(1925) - 6/ 11  播電鉄道に改称  (譲渡)
昭和 9(1934) - 12/ 15       廃止

















廃線跡現況

A 南端の網干港には網干川と接する貨物駅(写真A)が併設され、舟運との貨物中継点を担っていた。旅客駅(写真B)はこの西側、東雲橋北交差点付近となる。ここから北西に向う県道222号線が播電鉄道の跡地を転用したもので、右にカーブを描いたのち国道250号線と交差する。同所南側に余子浜町(写真C)が設けられていた。
15年3月

B
15年3月
C
15年3月

D
23年4月
同駅以北の路線は仮定県道上とされる。仮定の冠は県道指定の開始初期によく用いられ、候補に挙げられた主要地方道に付される。その道路上を進み山陽電鉄網干駅前、さらに垣内交差点を過ぎると道路は正式な県道27号線へと変わり、魚吹八幡神社の参道南側には玄関口の津ノ宮(写真D)が置かれた。
E
15年3月
地形図は駅の北で県道の西から東への線路移動を描き、横断用の踏切(写真E)が設けられたと推測できる。なお軌道から軽便鉄道への移行は、道路を拡幅して敷設した併用軌道敷分を専用軌道化して許可を受けた。つまり大半は工事を伴わない書類上の問題として処理し、その景観に大きな変化はなかったと考えられる。地形図は道路と線路の間に距離を置くが、実情とはやや異なるようだ。
ほぼ真北に進んでいた路線が県道と共にやや西に向きを振ると、次の坂出村に到着する。ここは詳細平面図が無く、地形図を頼ると坂出公民館付近(写真F)に駅が描かれる。しかし起点からの距離程は1哩50鎖0節(2615m)とされ、坂出交差点の南寄りを示す。集落の配置からは前者に軍配が上がるも、今のところ断定し切れていない。 F
15年3月
G 和久交差点の北方に位置した和久(写真G)。ここも待避線を備えていたはずが、相変わらず目印となるものは何ひとつ発見できない。付近の商店で話を聞いてみたものの、鉄道が走っていたことを逆に驚かれてしまった。残念だが、廃止時期を考えればやむを得ないと諦めるしかない。
15年3月
駅の先で県道から左に別れる。専用軌道に変わった路線は住宅地内へ入り込み、正確なトレースは困難となるが、地形図から高田前田公園内、武大神社前付近を通過していたとの推測は可能だ。進路を再び北に戻すと右前方に地元の酒蔵が姿を現し、その西側に山陽本線を乗り越えるための築堤が築かれていた。跡地(写真H)は手つかずで残されていたが、現在は県道のバイパス工事が進んでいる。 H
15年3月
I
15年3月
JR線の北側は再び住宅地に利用され、しばらくして県道27号線に接近する。同名バス停の西側となる糸井(写真I)は、当時の写真も残されるが、その後の変貌が激しく場所の確認にはまったく役立たない。
J
15年3月
駅の南から山陽本線に接続する支線が分岐し、県道脇の駐車場片隅に用水路を渡る橋台跡(写真J)を見つけることが出来る。その先は民家に飲込まれ一旦痕跡は消えるが、駅の近くまで来ると一部が細い生活道(写真K)に転換される。網干駅(写真L)はJR駅前に位置し、下記参考資料1は駅駐車場の石垣を当時のホーム跡と記す。ただし高床式なので、旅客ではなく貨物用と考えてよさそうだ。

K 網干駅跡 L
15年3月 15年3月

M
15年3月
本線側は県道27号線脇から徐々に西へと離れつつ北上する。既に住宅が建並ぶ中、それらしき土地境界線を目にするが、現地で明確な教示はなかった。なおも北上すると、やがて旧県道が東から近づいてくる。その手前に置かれていた立岡(写真M)は同名バス停を西に入った付近だが、精度の低い大正12年の地形図を元にしているため、正確な判断は無理と言わざるを得ない。
一旦旧県道に接近した路線はすぐ西に離れ始め、新幹線をくぐり抜けると再び住宅地に飛込む。その一角を占める畑の中に、検車設備の遺構(写真N)を見つけることが出来る。南端には下に降りる階段も当時のまま残されているそうだ。ここが本社車庫跡で、東側の民家は[いかるが](写真O)のホームを土台にしたと下記参考資料に記されている。本社屋に併設された主要駅でもあった。 N
15年3月
O
15年3月
西方の太子山麓に遊園地を開設し、集客に努めていたようだが既にその面影はない。駅を出た後は住宅地を北上し、太子町役場を抜け旧国道2号線と交差、さらに歯科医院の横をかすめて小学校の敷地に入る。相変らず、もしやと思われる境界線が散見されるものの、確証はつかめない。
P
15年3月
太子(写真P)の手前で国道179号線に合流し、北西に向きを変える。道路西端を走っていた路線は、やはり併用軌道から専用軌道へと名義変更された区間となるが、その面影は既に無い。
Q
15年3月
国道がほんの少し北に向きを振ると、鉄道側は徐々に西へと離れ始める。この直前に設けられていたのが福田(写真Q)となる。
R
15年3月
国道と別れたのちは区画整理された農地の中を進み、同2号線太子竜野バイパスをくぐった先で林田川にぶつかる。河川改修で堤防も嵩上げされ、橋梁の跡は消されてしまったが、左岸には当時の築堤用地が工場と農地に囲まれた細長い空地(写真R)として残されている。
S
23年4月
川を越えた右岸に設けられていたのが広山(写真S)で、駅跡は倉庫等に活用された模様だ。また西側のJAでは、敷地にそれらしき土地境界線を見つけることができる。同所で再び北西に向きを変えた路線は、旧国道を横切ったのちその東脇を併走する。こちらは当初から専用軌道で敷設され、途中には路盤跡らしき空き地(写真T)や宅地(写真U)に転用されたと思われる区間も認められる。

T
15年3月
U
24年3月

V
15年3月
道路はそのまま現国道に合流するものの、東に隣接する鉄道用地は道路拡幅には利用されず、農地や民家、あるいは店舗等に細かく分割して払い下げられたようだ。ただし途中の宮脇(写真V)を含め、たつの市街地まではその痕跡を見つけることは難しい。
W
26年3月
富永交差点の手前で一旦国道から東に離れ、続く左カーブで国道を横断して播電龍野(写真W)に至る。当初は龍野支線として建設された区間で、駅跡の大半は民家等に細かく分断され、主要駅としての雰囲気は一切感じ取れない。路線はここで一旦スイッチバックしたのち、左急カーブを描いて北方向を目指す。
X
15年3月
曲線部は当初、本線と龍野支線を結ぶ接続線と呼ばれ、その途上に橋台跡らしき石積(写真X)を認めるが、鉄道の遺構と断定することは難しい。さらに産婦人科病院の駐車場を抜け、県道437号線上に出る。本来はここで宮脇からの本線と合流しデルタ線を形成するはずが、東辺の本線部分は建設されず、まずはY字線として稼働を始めた。のちに不足辺を堂本待避線として短絡させたものの、使い勝手が悪かったのか短命に終わっている。
Y
23年4月
ここからの県道は鉄道跡を拡幅転用したもので、二車線の快適な道路となる。最初の堂本交差点北方から醤油会社への引込線が分岐し、岩見用水の西側にあった工場まで延びていた。工場はその後、県道際まで大きく拡張され、醸造の独特な匂いを付近に漂わせている。次の日飼交差点北側に日飼(写真Y)が設けられ、右手奥にはこの鉄道を廃止に追いやった姫新線のレールが視界に入り込む。
Z
23年4月
龍野中央病院北方の島田村(写真Z)を過ぎて大きなS字カーブを描くと、右手から旧道が接近し、その西側を併走することになる。現在は両者を合わせて県道437号線として利用され、次の小那田(写真AA)、さらに東觜崎公民館前バス停が目印となる播電觜崎[ばんでんはしさき](写真AB)へとつながっていく。

AA
23年4月
AB
15年3月

駅の北で道路と共に揖保川を越えるが、堤防は嵩上げされ橋梁も既に架け替えが済んでいる。しかし橋桁の下に併用橋時代の石積橋台(写真AC)が現存し、また下流数百メートルの地点では、水圧で流された橋脚の残骸(写真AD)を確認することができる。

AC
16年3月
AD
15年3月

AE
15年3月
川を渡ると北に向きを戻し、県道から外れた直後に水路用の橋台が二箇所(写真AE・AF)で姿をみせる。この先は圃場整備された農地の中をほぼ一直線に進む。
越部北村(写真AG)は太陽光発電施設の南側で、鉄道用地に沿った斜めの土地境界線が残されている。

AF
15年3月
AG
15年3月

AH
23年4月
直進する播電鉄道は徐々に国道179号線に接近し、その道路沿いの精肉店東南に越部(写真AH)が置かれていた。代替バスの名残でもなさそうだが、同名バス停も設けられている。駅を出た後、国道を横断して西側に位置を移し、そのまま総合病院内を突き抜ける。この北側で小橋梁痕(写真AI)を発見する。桁はコンクリートに換装されるものの、両岸の石積橋台は鉄道時代のものと考えてよさそうだ。次の井野原(写真AJ)からは、線路跡を転換した生活道が北に延び始める。

AI
23年4月
AJ
15年3月

AK
23年4月
しばらく進むと道幅がやや狭くなり、やがて木材工場に突き当る。ここが終点新宮町(写真AK)で、新宮市街地の南端に位置し、工場前を横切る東西の路地が当時の駅前道路であったと推測される。また事務所脇には駅跡を示す案内板が設置され、その歴史を後世に伝えている。

参考資料

  1. 鉄道ピクトリアル通巻685号/播電鉄道盛衰記/木村昌晴 著
  2. 第十門・地方鉄道軌道及陸運・二、地方鉄道(元軌道)・播電鉄道(元竜野電気鉄道)・営業廃止・明治四十一年〜大正二年 他
    /国立公文書館

参考地形図

1/50000   龍野 [S7鉄補]   姫路 [T12二修]
1/25000   龍野 [S7鉄補]   網干 [T12測図]

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最終更新日  *路線図は国土地理院地図に追記して作成* 
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